武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 少数意見表明の矜持

しばらくブログに飽きて、お休みしていた。
久しぶりに言いたいことがあったので、再び徒然ごとを書くことにした。
先月、2月27日に最高裁で、7年前におきた卒業式のピアノ伴奏拒否事件の判決があった。
関心がある事件だったので、判決時刻に合わせて、最高裁まで行ってきた。
最高裁のあり方というか、傍聴の手続きのほか判決言い渡しの裁判官の態度まで、気に入らないことがいくつかあったが、そのことは置いておいて、判決文を読んで、今回の小法廷の5人の裁判官の1人が、判決文の中に書いていた反対意見がすこぶる気に入った。5人の多数決なので、上告の主旨は棄却されたのだが、1人の裁判官の少数意見の主張の仕方が強く印象に残ったので全文を引用したい。
この国では、少数意見の尊重というお題目はあるが、その取扱いのルールというか、少数意見の尊重の仕方についての適切なしきたりが不足していると思う。多数が誤った悲しい歴史経験をもつこの国では、もっと真剣に考えていいことだと思う。
私は少数意見の主張を作品全体のテーマにして全面的に展開した文学作品の代表が大西巨人の「神聖喜劇」だと思うが、今回の判決文の藤田宇靖裁判官の反対意見もなかなかのもの。読みづらい法律的な文章だが、書き手の姿勢の毅然たる雰囲気は、手に取るように鮮やか。是非ご賞味ください。蛇足だが、内容が論理的で正当なのは、言わずもがな。

 裁判官藤田宙靖の反対意見は,次のとおりである。

 私は,上告人に対し,その意に反して入学式における「君が代」斉唱のピアノ伴奏を命ずる校長の本件職務命令が,上告入の思想及び良心の自由を侵すものとして憲法19条に反するとはいえないとする多数意見に対しては,なお疑問を抱くものであって,にわかに賛成することはできない。その理由は,以下のとおりである。

 1 多数意見は,本件で問題とされる上告入の「思想及び良心」の内容を,上告人の有する「歴史観ないし世界観」(すなわち,「君が代」が過去において果たして来た役割に対する否定的評価)及びこれに由来する社会生活上の信念等であるととらえ,このような理解を前提とした上で,本件入学式の国歌斉唱の際のピアノ伴奏を拒否することは,上告人にとっては,この歴史観ないし世界観に基づく―つの選択ではあろうが,一般的には,これと不可分に結び付くものということはできないとして,上告人に対して同伴奏を命じる本件職務命令が,直ちに,上告入のこの歴史観ないし世界観それ自体を否定するものと認めることはできないとし,また,このようなピアノ伴奏を命じることが,上告人に対して,特定の思想を持つことを強制したり,特定の思想の有無について告白することを強要するものであるということはできないとする。これはすなわち,憲法19条によって保障される上告人の 「思想及び良心」として,その中核に,「君が代」に対する否定的評価という歴史観ないし世界観」自体を据えるとともに,入学式における「君が代」のピアノ伴奏の拒否は,その派生的ないし付随的行為であるものとしてとらえ,しかも,両者の間には(例えば,キリスト教の信仰と踏み絵とのように)後者を強いることが直ちに前者を否定することとなるような密接な関係は認められない,という考え方に立つものということができよう。しかし,私には,まず,本件における真の問題は,校長の職務命令によってピアノの伴奏を命じることが,上告人に「『君が代』に対する否定的評価」それ自体を禁じたり,あるいは一定の「歴史観ないし世堺観」の有無についての告白を強要することになるかどうかというところにあるのてはなく(上告人が,多数意見のいうような意味での「歴史観ないし世界観」を持っていること自体は,既に本人自身が明らかにしていることである。そして,「踏石絵」の場合のように,このような告白をしたからといって,そのこと自体によって,処罰されたり懲戒されたりする恐れがあるわけではない。),むしろ,入学式においてピアノ伴奏をすることは,自らの信条に照らし上告入にとって極めて苦痛なことであり,それにもかかわらずこれを強制することが許されるかどうかという点にこそあるように思われる。そうであるとすると,本件において問題とされるべき上告入の「思想及び良心」としては,このように「『君が代』が果たしてきた役割に対する否定的評価という歴史観ないし世界観それ自体」もさることながら,それに加えて更に,「『君が代』の斉唱をめぐり,学校の入学式のような公的儀式の場で,公的機関が,参加者にその意思に反してでも一律に行動すべく強制することに対する否定的評価(従って,また,このような行動に自分は参加してはならないという信念ないし信条)」といった側面が含まれている可能性があるのであり,また,後者の側面こそが,本件では重要なのではないかと考える。そして,これが肯定されるとすれば,このような信念ないし信条がそれ自体として憲法による保護を受けるものとはいえないのか,すなわち,そのような信念・信条に反する行為(本件におけるピアノ伴奏は,まさにそのような行為であることになる。)を強制することが憲法違反とならないかどうかは,仮に多数意見の上記の考えを前提とするとしても,改めて検討する必要があるものといわなければならない。このことは,例えば,「君が代」を国歌として位置付けることには異論が無く,従って,例えばオリンピックにおいて優勝者が国歌演奏によって讃えられること自体については抵抗感が無くとも,一方で「君が代」に対する評価に関し国民の中に大きな分かれが現に存在する以上,公的儀式においてその斉唱を強制することについては,そのこと自体に対して強く反対するという考え方も有り得るし,また現にこのような考え方を採る者も少なからず存在するということからも,いえるところである。この考え方は,それ自体,上記の歴史観ないし世界観とは理論的にはー応区別された―つの信念・信条であるということができ,このような信念・信条を抱く者に対して公的儀式における斉唱への協力を強制することが,当人の信念・信条そのものに対する直接的抑圧となることは,明白であるといわなければならない。そしてまた,こういった信念・信条が,例えば「およそ法秩序に従った行動をすべきではない」というような,国民一般に到底受け入れられないようなものであるのではなく,自由主義個人主義の見地から,それなりに評価し得るものであることも,にわかに否定することはできない。本件における,上告人に対してピアノ伴奏を命じる職務命令と上告人の思想・良心の自由との関係については,こういった見地から更に慎重な検討が加えられるべきものと考える。
 2 多数意見は,また,本件職務命令が憲法19条に違反するものではないことの理由として,憲法15条2項及び地方公務員法30条,32条等の規定を引き合いに出し,現行法上,公務員には法令及び上司の命令に忠実に従う義務があることを挙げている。ところで,公務員が全体の奉仕者であることから,その基本的人権にそれなりの内在的制約が伴うこと自体は,いうまでもなくこれを否定することができないが,ただ,逆に,「全体の奉仕者」であるということからして当然に,公務員はその基本的人権につき如何なる制限をも甘受すべきである,といったレヴェルの一般論により,具体的なケースにおける権利制限の可否を決めることができないことも,また明らかである。本件の場合にも,ピアノ伴奏を命じる校長の職務命令によって違せられようとしている公共の利益の具体的な内容は何かが問われなければならず,そのような利益と上記に見たようなものとしての上告人の「思想及び良心」の保護の必要との間で,慎重な考量がなされなければならないものと考える。

 ところで,学校行政の究極的目的が「子供の教育を受ける利益の達成」でなければならないことは,自明の事柄であって,それ自体は極めて重要な公共の利益であるが,そのことから直接に,音楽教師に対し入学式において「君が代」のピアノ伴奏をすることを強制しなければならないという結論が導き出せるわけではない。本件の場合,「公共の利益の達成」は,いわば,「子供の教育を受ける利益の達成」という究極の(一般的・抽象的な)目的のために,「入学式における『君が代』斉唱の指導」という中間目的が(学習指導要領により)設定され,それを実現するために,いわば,「入学式進行における秩序・紀律」及び「(組織決定を遂行するための)校長の指揮権の確保」を具体的な目的とした「『君が代』のピアノ伴奏をすること」という職務命令が発せられるという構造によって行われることとされているのである。そして,仮に上記の中間目的が承認されたとしても,そのことが当然に「『君が代』のピアノ伴奏を強制すること」の不可欠性を導くものでもない。公務員の基本的人権の制約要因たり得る公共の福祉ないし公共の利益が認められるか否かについては,この重層構造のそれぞれの位相に対応して慎重に検討されるべきであると考えるのであって,本件の場合,何よりも,上記の①「入学式進行における秩序・紀律」及び②「校長の指揮権の確保」という具体的な目的との関係において考量されることが必要であるというべきである。このうち上記①については,本件の場合,上告入は,当日になって突如ピアノ伴奏を拒否したわけではなく,また実力をもって式進行を阻止しようとしていたものでもなく,ただ,以前から繰り返し述べていた希望のとおりの不作為を行おうとしていたものにすぎなかった。従って,校長は,このような不作為を充分に予測できたのであり,現にそのような事態に備えて用意しておいたテープによる伴奏が行われることによって,基本的には問題無く式は進行している。ただ,確かに,それ以外の曲については伴奏をする上告人が,「君が代」に限って伴奏しないということが,参列者に一種の違和感を与えるかもしれないことは,想定できないではないが,問題は,仮に,上記1において見たように,本件のピアノ伴奏拒否が,上告人の思想・良心の直接的な表現であるとして位置付けられるとしたとき,このような「違和感」が,これを制約するのに充分な公共の福祉ないし公共の利益であるといえるか否かにある(なお,仮にテープを用いた伴奏が吹奏楽等によるものであった場合,生のピアノ伴奏と比して,どちらがより厳粛・荘厳な印象を与えるものであるかには,にわかには判断できないものがあるように思われる。)。また,上記②については,仮にこういった目的のために校長が発した職務命令が,公務員の基本的人権を制限するような内容のものであるとき,人権の重みよりもなおこの意味での校長の指揮権行使の方が重要なのか,が問われなければならないことになる。原審は,「思想・良心の自由も,公教育に携わる教育公務員としての職務の公共性に由来する内在的制約を受けることからすれば,本件職務命令が,教育公務員である控訴人の思想・良心の自由を制約するものであっても,控訴人においてこれを受忍すべきものであり,受忍を強いられたからといってそのことが憲法19条に違反するとはいえない。」というのであるが,基本的人権の制約要因たる公共の利益の本件における上記具体的構造を充分に踏まえた上での議論であるようには思われない。また,原審及び多数意見は,本件職務命令は,教育公務員それも音楽専科の教諭である上告人に対し,学校行事におけるピアノ伴奏を命じるものであることを重視するものと思われるが,入学式におけるピアノ伴奏が,音楽担当の教諭の職務にとって少なくとも付随的な業務であることは否定できないにしても,他者をもって代えることのできない職務の中枢を成すものであるといえるか否かには,なお疑問が残るところであり(付随的な業務であるからこそ,本件の場合テープによる代替が可能であったのではないか,ともいえよう。ちなみに,上告人は,本来的な職務である音楽の授業においては,「君が代」を適切に教えていたことを主張している。),多数意見等の上記の思考は,余りにも観念的・抽象的に過ぎるもののように思われる。これは,基本的に「入学式等の学校行事については,学校単位での統―的な意思決定とこれに準拠した整然たる活動が必要とされる」という理由から本件において上告人にピアノ伴奏を命じた校長の職務命令の合憲性を根拠付けようとする補足意見についても同様である。

3 以上見たように,本件において本来問題とされるべき上告人の「思想及び良心」とは正確にどのような内容のものであるのかについて,更に詳細な検討を加える必要があり,また,そうして確定された内容の「思想及び良心」の自由とその制約要因としての公共の福祉ないし公共の利益との間での考量については,本件事案の内容に即した,より詳細かつ具体的な検討がなされるべきである。このような作業を行ない,その結果を踏まえて上告人に対する戒告処分の適法性につき改めて検討させるべく,原判決を破棄し,本件を原審に差し戻す必要があるものと考える。

どうですか、もしあなたが少数意見を言いたくなった時、この程度に論理的な正当性を背景に主張を展開するなら、たとえその状況下では少数者であっても、生きて行けるのではないでしょうか。小数であることの誇りと矜持に満ちた文章だと感じ入りました。良識とはかくも存在感あふれるものなのです。