武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『ぼくらの時代には貸本屋があった−戦後大衆小説考』 菊池仁著(発行新人物往来社2008/8/5)


 近所の新刊本屋をのぞいていて、<貸本屋>の一言にひかれて手にとった。副題の<戦後大衆小説考>も気になった。奥付けを見ると、著者は1944年横浜生まれとある。ほぼ同世代の大衆小説好きの、活字中毒患者とみた。
 特に読みたかったのは、第一章の<貸本屋一二三堂と昭和三十年代>、期待にたがわず戦後の貸本屋が華やかだったころの昔懐かしい古本屋話、神奈川県横浜市東久保町界隈で育った著者の小中高時代の読書体験に、昭和30年代の貸本文化の盛衰を織り交ぜた楽しいエッセイ。80ページほどを費やし本書全体の土台ともなっている力のこもった章。この章を読んで、ほかにも貸本文化のことをテーマにした参考資料があることも分かり、参考になった。この章では、貸本屋のオバサンとの情報交換がほのぼのとしていてよかった。研究熱心な貸本屋の経営者でなければ知らないような知識と情報に、著者が絶大なる信頼をおいているところが素晴らしい。地域にこういう大人がいて子ども達の蒙を拓いてくれていた、そんな時代だった。
 戦後の貸本屋は、マンガ本のかつての流通形態として語られることが多かったが、貸本屋の経営形態はその地域のマーケットによって相当に違いがあり、マンガ本の占める比重にも違いがあり、店の品揃えにも相当の違いがあったことも分かり(言われてみれば当たり前のこと)、いい勉強になった。私も地域の貸本屋で、学校の図書館ではお目にかかれないたくさんの大衆小説を借りて読み、楽しい少年期を過ごさせてもらった。周りにいた本好きの仲間はみんなそうだった。
 2章以下は、貸本屋で読みふけった著者の読書体験を軸にした、副題通りの<戦後大衆小説考>、今はほどんど読まれなくなり、古本としても入手困難になている懐かしい昭和の時代の大衆小説の作家論、面白さに焦点をあてながらも、真面目な国民文学論(この言葉も相当に古い)になっている。ほとんど同世代かなと思っていたが、私の大衆文学体験と、可なりの部分で擦れ違いがあり、地域による偏りだと思うが、自分の体験と比較して非常に面白かった。
 特に最後の9章の白川渥については、全く知識がなく、しかも力と気持の籠った力作で、本書を締めくくるにふさわしい章、感心しながら読んだ。
 最後に本書の目次を引用しておこう。

第1章 貸本屋一二三堂と昭和三〇年代
第2章 柴田錬三郎―花も実もある絵空事
第3章 五味康祐―剣豪が斬ったのは戦後思想
第4章 村上元三―名もなき庶民の歴史参画
第5章 角田喜久雄―伝奇ロマンへの招待状
第6章 富田常雄―『姿三四郎』だけではない
第7章 松本清張―『かげろう絵図』と『西海道談綺』の違い
第8章 井上靖―ロマンの香り高い恋愛小説
第9章 白川渥―明朗、清潔な学園もの

 近現代文学史には、ほとんど登場しない著者名ばかりだが、大量に印刷され大量に読まれていた作品だけに、顧みられなくなっているのは何ともさびしい。正当に位置付けて、きちんと記憶にとどめておこうとするこういう試みはとても貴重。
 団塊の世代に先行する世代の読書好きには、是非手にとってみてほしい。