武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『モモコさんと僕』 林静一著 (発行ファラオ企画1994/11/10)

 図書館の利用は最近ではもっぱらネット予約に頼っているが、久しぶりに開架書棚をぶらついていてエッセイ随筆の書架でこの本が目にとまった。著名な漫画家にしてイラストレーターである林静一氏の介護エッセイらしく、借りてみることにした。
 60年代の後半、月刊漫画雑誌「ガロ」を愛読していた頃、林静一氏の登場は新鮮だった。今でも青林堂からでた林静一作品集は手放さないで持っている。多くの達者なほかのマンガ家達のような自在な線画ではなく、ぎこちないような繊細な意識的な線描が描き出す、叙情的な世界が儚げでいたいたしかった。長編「赤色エレジー」にたどり着いたあと、イラストの世界へ仕事が広がっていった頃から、しだいに遠ざかってしまった。
 読み出してみて驚いた。林氏のマンガが持っていたような繊細な描写力が、文体に見事に反映しているのだ。マンガの構成と表現は文章表現と共通するところがあるのかもしれない。マンガ家の文体は、マンガの特徴とよく似ていることが多い。手塚治虫つげ義春さくらももこそうだった。このエッセイもまさにそうだ。
 マンガではコマ割りという表現方法が、文章では段落構成に似ているのだろうか、文章の流れと組み立てが視覚的に鮮明で、情景がくっきりと目に浮かんでくる。どこまでが事実でどこからが想像なのか分からないが、優れた私小説を読むときのような、皮膚感覚をなぞるような独特の説得力がある。私はこの本を読みながら、今は亡き自分の母親のことを何度も思い出した。私の母も、戦争に青春を翻弄され、懸命に気丈に戦後を生きて、疲れ果てたようにしてこの世を去っていった。戦後を気丈に生きた一人の女性の哀しい戦後史の記録として、多くに人にお勧めしたい。 
 前置きはこれ位にして、本書の中身に触れておこう。
①何よりもまず、本書は林静一氏の母の介護エッセイである。1章と5章は老人性の認知症を発症したり、骨折をしたり強迫神経症を患ったりした母親の介護の記録である。林氏の繊細な神経が、微妙な介護で傷ついたり安堵したりする経過が、微細に書き込まれていて、何とも痛々しい。母一人子一人で長い間戦後を生きてきた二人に訪れた人生の黄昏、美しくもあり哀しくもある林静一の世界だなと言う感想をもった。
②2章から4章までは、林静一氏の生い立ちの記でもあり、母親モモコさんの戦後社会子育ての記でもあり、1歳で父親と姉を亡くしたというから、他に頼るあてのない母子ふたりの何とも切ないけれど、懸命に生きようとして健気な人生の記録である。それにしても、林氏の筆になると、何と危うくて美しい二人であることか。微妙な二人のすれ違いが、繊細な林氏の筆運びで、実に哀しくも鮮明に浮かび上がり、次第に神経を病んで行くモモコさんの人物像がまるで林静一描くところの今にも折れてしまいそうな儚げなイラスト画像に結びつく。モモコさんが林静一の女性像の原風景なんだと言うことがしみじみと分かってくる。深夜、布団の中で一人泣いているモモコさんの描写が印象的、林静一の叙情画のワンシーンを思わず思い浮かべてしまった。
③戦後女性は強くなったと言う台詞があるが、この台詞は男の台詞だ。僅かばかりの強そうに見える女性の背後に、時代に翻弄されて消えていった何と多くの名をなさない女の生涯が横たわっていることだろう。この本を読むと、一人の女性に寄り添うように焦点を当てているので、かえってその背後にいる多くの懸命にいきた母親達の存在を感じてしまった。平和だと言われている社会にあっても、哀しい女性史は絶えることがないのかもしれない。勿論、哀しい女性史に寄り添う男達も哀しくないはずはないのだが・・・。
④「消えゆく命」の章で、自らの死を覚悟したのか、食事を取ることをやめてしまうモモコさんのエピソードを読んで、<誇り高い>人の最後は、いつもどこか似ていることに驚いた。拒食症とも自殺とも違う、これ以上生き伸びることへの明確な意思表示、尊厳のある自らの死について考えさせられた。
 目次を引用しておこう。

第1章 痴呆病棟
第2章 戦後の青空のもとで
第3章 彷徨える「母」
第4章 誇り高き老い
第5章 消えゆく命
終 章 沈丁花

 林静一のイラストやマンガが好きな人には、是非お勧めしたい。林氏の絵やイラストを背後で支えている哀しい情緒の原点が読み取れます。