武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 詩人鳥見迅彦の<詩集・山の三部作>(2)


第二詩集『なだれみち』は、1969年に創文社より発行された。55年から69年までの14年間の作品の中から、山に関係するものを89篇選んだと<あとがき>にある。著者59歳ときの詩集である。「山」に関係しない作品の試みもあっただろうが、詩集にまとめるほどにはならなかったということだろう。既に、登山に特化した山岳詩人としての評価が定まり、動かしようのない高みに登りつめた作者の成果である。
作品の完成度はさらに高くなり、一篇一篇が推敲しつくされて無駄がなく、破綻のない言葉が整然と詩の言葉らしい輝きを発して並んでいる。山岳や登山を主題に、これほどの質と量を書き継いだ詩人は珍しい。小説に山岳小説と呼ばれる一群の作品があるように、これは山岳詩集と呼ぶに相応しい。詩集の構成は7章に整理され、以下のような7つ題のもとにまとめられている。

うしろむきの磔−18篇
登攀者−7篇
ある一年−12篇
雪の精−9篇
空には鷹−13篇
クララ−12篇
ハイマツのハンモック−18篇

7つのグループに分けられ整理された詩篇群を、順番に見ていこう。まず、「うしろむきの磔(はりつけ)」と題されたグループ。それにしても、このネーミングは何とも象徴的にクライミングを視覚化したフレーズだろう。3点で自分の体重を支持しながら、自分の力だけで岸壁をよじ登るクライマーの極限の姿を、その背後の空間から見つめたイメージ。磔(はりつけ)とは進退窮まって身動きの取れなくなったクライマーの極限状況と死を暗示する。鳥見迅彦は、このような設定で山の詩を紡ぐ。単なる自然賛歌から明確に距離を置いていることがおわかりだろうか。
グループ名と同じ題の詩篇を引用しよう。

うしろむきの磔》 

    *

夜がきた。
黒葡萄色の岩壁に
うしろむきの磔。


星のむれが松明をともして
遠くざわめき
地上の小さな罪人をさがしていた。
風がピッコロをふきならし
罰は告げられ
あわれみの余韻も消えた。


「石で打て!」ときこえたような気がする
はやくも前兆の砂がなだれてきて
磔られた者のまつげを打ち
うなじを打ち
肩を打った。

    **

朝がきた。
ばら色の岩壁に
うしろむきの磔。
岳鴉はとむらいのうたを
よろこばしげにうたって舞い
太陽は王のごとく
きらら雲をおしのけて登る。
ひとびとは一本の望遠鏡を奪いあって
はるかに高い処刑をかわるがわる覗いた。


「無辜!」と一人がさけび
太陽へむかって
はげしく指をたてた。
唾。
「生かして返せ!」

    ***

磔をおろせ。
ザイルをかけろ。
柴橇を曳け。
死人の顔を見るな。
石を積め。
薪のためにその白樺を伐り倒せ。
載せろ。
上向きに。
ガソリンだ。
火をつけろ!

    ****

夜がきた。
黒葡萄色の岩壁に
ハーケンが一本。


なまあたたかい人間たちが
かまびすしくたちさったあとの
がらんと暗い
劇場のような
むなしさに
無機として孤独につきささったまま。


丸く穴のあいた鉄の耳で
なだれてゆく砂の音を
それを追う時間の音を
盲いたもののように
そのハーケンは聴いている。

1連と4連の「夜が来た」の間に、朝が来て、日が昇り、地上で群れ騒ぐ人々の、救出と葬儀がサンドイッチ状に挟まれ、1連の事故死したクライマーと4連の一本のハーケンの映像が対比され鮮やかに浮かび上がる。「磔」「処刑」「石で打て」「石を積め」とあるような宗教的なイメージが多用されイメージにキリスト教的な奥行きすら漂う。傑作である。
このグループに集められた18篇の詩群には、危険と背中合わせになって行動するハードな登山者が漂わせる死の雰囲気が流れている。冒険という言葉がもつロマンティシズムを削りとったような厳しさを身にまとった登攀者、レジャーとしての大衆的な登山に背を向け、先端的な登山に向かう戦後の新しい登山者たちの登場を暗示する。
第2のグループ「登攀者」と題された7篇からは、厳しさが退き、山登りを人生の過程にダブらせたような優しさがただよってくる。人は、様々な課題を背負って山を登ることがあると暗示するようになる。母親から自立しようとする青年の心情を、登山に重ね合わせた長編を紹介しよう。正直言ってこの詩を初めて読んだ時、私にはショックだった。硬質で磨きぬかれた剃刀のような言語が現代詩の言語だとばかり思っていたので、この柔らかく弛緩しているとも取られかねない感傷的なマザコン青年の心情のような長編詩に戸惑った。
だが鳥見が<おかあさん>と言う言葉に込めた執拗な追求を考えたとき、これは心理学者小此木啓吾が「阿闍世コンプレックス」で追求した日本の戦後社会像を暗喩にしたものではないかと、思い当たった。もともとの阿闍世コンプレックスにエディプスコンプレックスを加味した、独特の自立障害者<ぼく>の再構築こそ、鳥見独自の戦後社会への適応の物語だったのではないか。このあたりを境に鳥見迅彦の詩は大きく変わった。

山ヘ

   1

ごめんなさい。おかあさん。
あなたの心配そうなまなざしに気づかないふりをして、
あなたの息子は
山へ出発します。
あなたを置きざりに。


甘いお乳はもうたくさん。
ぼくはもうあなたのあかんぼではありません。
ぼくの肩に手などかけないでください。
ぼくのゆくてにうろうろと立ちふさがらないでください。
そこどいてください。


おかあさん! じゃましないで!
ぼくを明日へ、いさぎよく
出発させてください。
遠い山とぼくとのあいだのみちのりをあけてください。
あなたのまわりにたちこめるなまあたたかい靄からぼくを解放してください。


おかあさん、よけいなおせっかいはよしてください。
準備は自分ひとりでやります。
着るものも食べるものも十分に持ちました。
おまもりも持ちました。
迷子ふだも持ちました。


列車はブラインドをおろして深夜の平野を走っています。
北へ。
雪へ。
寒いような、暑いような、いらだたしい空気が車内に満ちています。
なかなか眠れません。


のどがかわきます。
もう煙草もいや。
ウィスキーもいや。
蜜柑もいや。
おかあさん。ほんとに、ごめんなさい。

   2

おかあさん。
あなたとぼくとはもうずいぶん遠く離れてしまっているのに
あなたの呼び声が、ふいに、この耳もとできこえます。
ぼくを乗せて夜中をいそぐ列車のとどろきをすりぬけて
その声は、魔女のように、ぼくを追いかけてきます。


ぼくを抱きとめようとしてさしだしたあなたの手を
じゃけんにふりはらって、この狂おしい旅は出発したのだが。
あなたのこころにさびしい傷を負わせたことで、ぽく自身も
いまは、すこし悔に青ざめています。
ごめんなさい。おかあさん。


果てしない車輪のリズムを、いたずらに
かぞえては、ご破算、やりなおし。
まずしく固い座席に、からだをねじまげて、
眠ろうとして眠れないで、もがいているのは
ひとりの夢想家、ぼくだ。


おかあさん。ぼくの名を呼ばないでください。
ぼくは両耳を両手でおさえ、
目をかたくつぶって、息をのみ、
あなたからのあやしい信号におびえています。
ぼくを読みあげるその声を封じてください。


ぼくから白い山のゆめを奪いとろうとしないでください。
恋のようにせつなく満ちてふくらんだそのゆめをそのままゆるしてください。
遠くひかるまぼろしの山頂へ、
とびたってゆくぼくのたましいに祝福をあたえてください。


おかあさん。いつまでもまぼたきをせずにこちらを見ているその目をとじてください。
明日を見とおす者のような、その暗いまなざし、
その冷い放射をぼくにそそがないでください。
ぼくの内部にしみこんできて大事な大事なヴィジョンをばらばらにこわしてしまおうとするそのむごい力、
その目の意味することをぼくにおしえてください。


いいえ。おしえないでください。
この山行を中止してひぎかえしてこい、などと暗示することをやめてください。
痛いほどの、このむなさわぎを、しずかにおさえてください。
おかあさん。ぼくを山へ、突きはなしてください。

   3

おかあさん。
くるりとうしろをむいて、さっさと
むこうへ行ってしまうおかあさん。
ちょっと待ってください。
たちどまってください。


ぼくがあなたを拒んだあとで、
こんどはあなたがぼくを拒む。そして
いまはぼくがあなたを呼ぶ番だ。けれども
あなたはきこえないふりをして
こっちをふりむいてくれない。


あなたのうしろすがたは
たちまち遠く、もう豆粒だ。
それ以下にちぢまないでください。
消えてしまわないでください。
ぼくを見捨てないでください。


にわかにざわめきはじめたこの胸の騒乱を、おかあさん、
あおりたてないでください。
ぼくをこわがらせないでください。
墜落や埋没の、不幸なイメージのむれを
ぼくから追っぱらってください。


ぼくを待ち伏せするわざわいの在りかを、
そっとしらせてください。
雪と岩とのあいだ、困難と危険とのあいだで、
運命的なアンバランスを余儀なくされるときに、
ぼくを、さっと抱きとめてください。


おかあさん。
あなたの乱れた髪、複雑な皺の顔、
ほそい目、不可解な微笑。
山姥のようなあなたの表情を思いながら、ぼくは
あなたを呼んでいるのです。

   4

ブラインドの隙間に藤色の夜あけを
最初にみつけたのは、ぼく。
眠れぬままに惑乱の時をすごした者に
ひさかたの宇宙からのこのひかり!
ふいにあふれてくる涙がおかしい。


悪いまぼろしにもてあそばれた夜はついに終わった。
ブラインドをはねのけて、
だれよりもはやく、はげしく
この大きな朝に撃たれる権利はぼくのものだ。
そうだ! ぼくは外へひらこう。


汽車は走っている。
単純な目的を単純に追うたくましい生きもののように。
そしてぼくもいまは希望に乗って地上を走る。
いっそう高らかに鳴りひびく鉄の車輪の音を
たのもしいものとしてぼくの耳は聴く。


きょうのひかりにぬれたパノラマは刻々に走る。
農場、木立、丘陵、街道、川……と
風景は回り流れて、やがて
はるかな視野に、逆光の山脈。
何から遠ざかり何へ近づくべきかを、そのとき、ぼくは確める。


おかあさん。
さようなら。
あなたの呪文はもうぼくにききめがない。
あなたとの鬼ごっこはこれでおしまいだ。
あなたは夜の国へ帰って自分のすみかに閉じるがいい。


もう二度と、おかあさん、そこから出てこないでください。
ぼくはあなたに鍵をかけよう。
あなたは暗黒に押しこめられ、
封印され、
埋められる。


さあ、ぼくは釈放だ、自由だ。
岩へ、花へ、雲へ、一目散に
駆けこむことがいまはできるのだ。
高く高く自分をつりあげ、
山の歌に酔うこともできるのだ。

   5

汽車からプラ″トホームに降りたち、階段をのぼり、ブリッジをわたり、改札ロヘむかって下り階段にかかる。あの一種の幸福な時。そのとき
りりしい山支度をした若者の一人が不覚にも足をすべらせたのです。
大きなザックがでんぐりかえり、ピッケルが宙に舞いあがり、
階段を落ちてゆきました。いちばん下まで落ちて止まりました。カメノコの裏がえし。
だれかが、くすくすとわらいました。落ちた人はすぐには起きあがれず、もがいています。


おかあさん。
夜あけのあのうつくしいひかりに洗われて、ぼくは
いきおいよくこの目を信じはじめたのに。
あなたの釣め手がうしろから、いま
ぼくの頸すじをぐいとつかむ。


せっかくかろやかにふくらんだぼくの朝の風船は
あなたの悪い針にさされて、
たちまちちぢんでしまう。
ちぢんだ風船をあなたはそのてのひらにのせて、
ぼくのゆめの目方を疑わしく計る。


おかあさん。
あなたがあの若者を突き落としたのですね。
あなたがあのわらい声をたてたのですね。
あれを見ろ、とあなたはゆびさす。
あの仰向きの悲惨なカメノコ。


あなたの陰謀のなんという凄さ!
ぼくはふたたびあなたに生捕られ、ひきもどされ、
毒を注がれたようにふるえながら
眼下にカメノコを見おろす。
これは破綻の象徽か、と。


山ヘ! けれどもぼくは行かなければならない。
おかあさん。あなたのしつこいつきまといになやまされながら、
不吉のささやきにおびえながら、
不安のさざなみにゆれながら、
躊躇と前進とにひきさかれながら。

長すぎる気もしないではないが、この長編詩を通過することによって、まるで憑きものが落ちたように、鳥見迅彦の詩は自在さを身にまとい、伸びやかに自然の中や山岳地帯を遊び回るようになる。作者にとってこれが何らかの通過儀礼のような意味を持っていたのかもしれないが、その理由はこの詩からは読み取れない。読者には知る必要のないことなのかもしれない。ともあれ、この先には<躊躇と前進>に引き裂かれつつも開放感を手にいれた鳥見の言語空間がある。
次の「ある一年」と題されたグループには、イタリア風ソネットと呼ばれるヨーロッパの定型詩のスタイルを取り、前半2連の4行詩と後半2連の3行詩からなる12カ月の山岳風物詩が収められている。軽妙な山風景の言葉による淡彩風スケッチ、小品ながら粒ぞろいの甲乙つけがたい良い詩が並んでいる。
この後に続く「雪の精」「空には鷹」の二つのグループも、雪山や高原に遊ぶ屈託のない伸びやかな詩情が謳歌され、爽やかな読み味の詩篇が並んでおり、あえて立ち止まって深読みしたくなるような難解な作品は出てこない。
その次の「クララ」と題された12篇の連作は、フランスの象徴派詩人レミ・ド・グールモンの「シモーヌ詩篇を彷彿とさせるような、愛らしく少しエロティックですらある小品群、ここまでくると鳥見の詩の自在さは、言葉が憩いの空間で遊んでいるいるみたい。一篇を引用してみよう。

キレットのクララ》  

クララよ。
こわがらずに。
もっと股をひらいて。
ぼくのでのひらの上まで、つまさきをのばしなさい。


お祈りがすんだら。
大きく息をして。
もういちどクララよ。
ぼくにとどくようこころみてごらん。


だいじょうぶ。
きみには天使がついている。いや
きみ自身が今は天使だと信じてもかまわない。
天使にしては、おちちが大きいが。


その大きなおちちで。
黒く割れたキレットの岩をこすりながら。
すこしずつ、ずりおりてくることだ。そして二度と
高いところへゆきたいなどと思わないことだ。

何とも自由な中年男の山歌だろう。粘り着くような執拗なコンプレックスを追求していた一時期の鳥見の影は、もはや跡形もない。このクララ詩篇は作者のお気に入りだったのか、この後も書き継がれ第3詩集へと続いてゆく。
この詩集最後の「ハイマツのハンモック」というグループも、全部山の詩、変化と言えば少し人生の味わいというか、人生訓的なニュアンスが漂い、単なる山の讃歌から、登山の場面を背景にした人生のドラマが織り込まれるようになる。名品「みちしるべ」を引用しよう。

みちしるベ》 


   きのう新雪すこし
   きょう晴天
   峠はもみじの満艦飾

「一と足お先きに」とていねいに挨拶をして、峠をくだっていった一人の中年男かある。
四角い行李の包みを背負い、
古びた鳥打をかぶった一見行商人風。
この男、さきほどから私のそばに腰をおろし、真鍮のナタマメギセルをおもむろに取り出して、ゆっくりと古風なけむりを鼻から出していたのだが。
この男、てのひらに、キセルを吹いて火を落とし、たくみにそれを手玉にとりながら、つぎのたばこの火につなぐ、あの奇術のような妙技の心得があった。
マッチは安く、ライターも普及する当節に、これはめずらしい昔風俗を保存する男。
しかもこの男、年のころは三十を幾つも出てはいまい。そのてのひらも百姓のごとくにごつくは見えぬ。へんな男。
ぽかんと口をあけて見とれる私ににっこりと微笑の一瞥。「これでしょう」とてのひらを
ひらいて見せた。「キセルのたばこはこれにかぎりますです。はい」
私の行先をたずね、それならば自分と同じだとうれしそうな顔をした男。
商売はくるしく、戦争はいけませんと歎いた男。
そして「一足お先きに」と立ち去った男。

   *

さて私も長居の腰をあげよう。あの男はもうだいぶ先きをあるいているだろう。

   山はもみじの海
   その海をひとり泳ぐ
   黄に紅に波たちさわぎ
   絢爛たる無人

峠をくだるほそみちは、しばらくゆくと、思いもかけぬ二股に出た。
はて、これはおかしい。こんなところにわかされのあるはずはない。五万分の一を見よ。
はっきり一本みちに相違なし。
どちらか一つは私にとってたしかににせものなのだ。
きつねむじなのたぐいにばかされまいぞ。
どちらか一つを私はまちがいなくえらばなければならない。けれども私にはそれができない。あてずっぽうをやるにはあまりに私はおくびょうだ。

   とつおいつ
   夕方となり
   夜となり
   途方にくれて
   もみじも暗く

これは不幸へと先まわりした私の妄想で。
白昼の現実は、まぶしいもみじ。やっぱし。二股だ。
私は二つにひきさかされて。
不信と不安の満潮がやかて私の岸にやってきた。

   *

ひょいと目にとまったものかある。小さな紙きれかかたわらの立木の枝先きに伝票みたいにさしてある。
(なんだろう?)
手にとってみると、おや、なにか字か書いてある。

   まよてくれるな
   あとからくる旅のお方
   みぎり山みち
   ひだり行くみち

手帳の一枚をやぶいて鉛筆の金釘流である。
これはさっきのナタマメさんのアドバイスなりと直感する。まよてくれるな、は迷ってくれるなのこと。あとからくる旅のお方とは私のこと。みぎり山みちとは右のみちは山仕事のみちであって旅のお方のみちではないとの意。ひだりのみちこそ私の行くべきみちである。とナクマメさんのみちしるべはかくのごとし。
私は一目散にひだりのみちを駈けおりた。
(ナタマメさんに追いつくことかできるかもしれぬ)
やさしいこころにもういちど会いたい。
ナタマメさんには、けれども、とうとう追いつくことがなかった。

   *

その峠のみちはその日から今も私につづいている。
その連綿の途上で、あれからの十数年間に、
私はナタマメさんの面影によく似た多くの人に大都会の雑踏のなかで行きあったが、
あのへんな男、峠の神さまのお使いのようなその男には
まだ再会できないでいるのである。
わが一生の歩行よ。
かの人をさがせ。

この印象的な散文詩のような味わいはどうだろう。かつて「けものみち」に迷い込み苦渋の泥濘でのたうっていた鳥見迅彦がようやく辿り着いた詩の境地の何と穏やかで奥深いこと。登山や自然とともに人生と楽しみとして受け入れ、過不足なく充足して生きる詩人の自信に満ちた姿がここにある。
ドラマならここで幕を閉じるのも一つのやり方だろうが、この先に第3詩集に実を結ぶ晩年の鳥見迅彦がいる。それが人の生涯というものである。(続く)