武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 朝のワンプレート(20)

 《味覚の日常性》
 ヨーロッパへ旅行に行くようになって、最初に感心したこと、どこのレストランでも、出されるパンの香りがすばらしく飽きのこないパンの美味しさとはこれだな、思わされたことだった。少し硬かったり、黒々としていたり、淡い酸味があったり、ライ麦の香りが強かったり、様々な個性をもっていても、日本の菓子パンのように目立った美味しさはないものの、どれも出されるバターと相性がよくて、噛みしめていると口に唾液がしみ出してきて、ほどほどの旨味がゆっくりと、しかもしぶとい芯の強い味となって湧き上がってくる。
 思わず、「ああ、これだったら毎日食べ続けても、飽きることなく、食べ続けていられるだろうな。」と呟いてしまう、そんな味のパンである。日本では、こういうパンは見つからないし、お店に置いても売れないだろうなという気がする。私は勝手に<ご飯パン>と名付けて、すっかり気に入ってしまった。
 トルコの田舎町の、村の共同焼釜で農家のおばちゃんから家用に焼いたパンをもらって食べたこともあるが、小麦と塩の味しかしない素朴なそのパンは、懐かしいような大地の実りの味としか言いようのない木訥な味で、思わず唸ってしまったほどだった。
 「美味しんぼ」のドラマが追い求める究極の味や至高の味もストーリーとしては面白いが、その対極にある<不味い味>とも違う、目立ちはしないが飽きることのない普通の当たり前の味というものがあると思う。毎日の庶民の暮らしの中で鍛えられた、日常生活に立脚した何でもないあの味である。
 B級グルメの食べ歩きがブームだそうだが、B級グルメからグルメの部分を取り除いたB級の味、お店で言えば高くもなく安くもない値段で食べさせる、何十年も地元に根付いて、地元の暮らしと共にあり続けるような味と言えばいいか。個性がないわけではないが、目立つような個性はないものの、長らく続けて見慣れた感じのするお店にそんな味が各地にあったような気がする。
 各家庭で母親が何度も作り、家族の間で定着している、家庭独自の定番料理の味、いつも食卓に並んでいて、誰もが当たり前だと思って、誰も気にすることなく食べてきた味、家族の日常性が張り付いているような、各家庭の定番の味がある。そんな味を味わいながら、子は育ち、娘さんは花開き、老人がひっそりと年老いてゆく、そんな<味覚の日常性>について、もっと注目が集まって欲しいと思っている。
 

 前置きはこれくらいにして、朝の献立を紹介してゆこう。まだ作り始めてわずか5年ほど、少しずつ日常化しつつある ある日の献立です。

5月某日の朝食(上) ・味噌汁(ダイコン、油揚げ)・ご飯・キャベツ温野菜・カリフラワーの温野菜・ブロッコリーの温野菜・ニンジンの温野菜・小松菜のおひたし・キュウリの浅漬け・モヤシの胡麻和え・トマト・プレーンオムレツ・画像にはないがコーヒー入りホット牛乳


5月某日の朝食(下) ・味噌汁(ダイコン、油揚げ)・ご飯・キャベツの温野菜・カリフラワーの温野菜・ブロッコリーの温野菜・トマト・サヤインゲンの胡麻和え・キュウリの浅漬け・蕪の甘酢漬け・白菜キムチ・ゴーヤのきんぴら・プレーンオムレツ・画像にはないがコーヒー入りホット牛乳