武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 3月第4週に手にした本(19〜25)

*情けないことに書庫にあることを忘れて同じ本を買ったり、読んだことすら忘れて図書館に予約を入れたりするようになってきた。読んだり読みかけたりした本を備忘録としてメモ、週1で更新しています。(今週もたくさんの本を手にしたが全部読了できたわけではありません。

石川淳著『限定版石川淳全集1』(河出書房1961/1)*全10巻のこの全集には格別の想いがある。発刊されたのは私が高校生の頃だった。千部限定1冊1900円の豪華本、岩波文庫の☆一つが50円だった時代、田舎の高校生に手の出せる本ではなかった。大人になったらあんな本が買えるようになりたいと思った。本好きの高校生の夢の象徴になった。古書として入手出来ることが分かり、後先を考えないで買ってしまった。1巻目を開いたら、同じ頃読んで心揺さぶられたフランスの大河小説の訳者に著者から贈られた寄贈本だった。奥付には番外寄贈本とある。遺族の方が処分したものが、廻りめぐって私の所に届いたのだ。こういう本を手に取ると複雑な感慨を禁じ得ない。読んだことのある作品ばかりなので、所々拾い読みして愉しんでいる。
長田弘著『定本私の二十世紀書店』(みすず書房1999/9)*20世紀と真剣に時には時代と命がけで渡り合った人々がこの世に残した本を、繊細でしなやかに解読した読書エッセイ集、異色の書評集といってもいいが、本の背後に横たわる20世紀という時代を解体新書する試み。全部読み通したことはないが、何度も手にとってその度に知的な刺激を得てきた。それにしてもこの著者の読書のなんと幅広いこと。
◎スチュアート・ヘンリ著『はばかりながら「トイレと文化」考』(文春文庫1993/6)*摂食と排泄はすべての動物の生命活動に欠くことのできない行為である。そう言う意味で、排泄行為に関わるトイレ関連事象の文化的考察に興味があって本書を手にした。期待以上に著者の蘊蓄が豊かで、ユーモアを交えた語り口も愉しくて、何度もニンマリしながら読んだ。古書として入手したので、随所に前の読者の書き込みが残っていて、それも愉しく、思い掛けない愉快な読書体験だった。才気煥発な著者の別の著作も読んでみたくなった。
◎袁枚著/中山時子訳『随園食単』(柴田書店1975/7)*清朝の詩人にして美食家だった趣味人が残した料理メモ帖、口絵にある著者の住まい随園の図版を一目見て、食に拘った生涯を送った人の生活が想像でき溜息が出た。書き込みが随所にある古書を入手、中華料理研究の資料として酷使された?形跡を見ながら、不思議な読書体験をしている。私は書き込みのある古書が嫌いではなくむしろ愉しい。食単とは、食についての短文、つまりメモのこと、それ以上を期待してはいけない本。中華料理のレシピ集ではないよ。
黒田恭一著『レコード・トライアングル/僕の音楽鑑賞法』(東京創元社1983/10)*著者50歳、音楽評論家として脂がのりきっていた頃、いろいろな雑誌に書いた多様な音楽エッセイを集め、5つのグループに整理してまとめてある。副題にあるように、独自の鑑賞法を提案するスタイルの文章が比較的多いか、個性的と言うよりも今読むと非常にオーソドックスな聴き方をしていた方だったことがわかる。クラシックの枠からはみ出す文章が特に興味深かった。