武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

「博士の愛した数式」小川洋子/新潮社

toumeioj32005-05-04

 交通事故による障害で80分の記憶力しかない元数学博士の家へやってきたシングルマザーの家政婦とその息子と母屋に暮らす博士の義姉の未亡人、このわずか4人の登場人物が織り成す数学とタイガースをエピソードにして展開する中篇小説。
家政婦が話者として登場するお話としては、筒井康隆の「家族八景」などの七瀬三部作を思い出す。家政婦という視点を切り口にして、閉じられた歴史をもつはずの家族の断面が鮮明に切り開かれ、人間ドラマが紡がれる。秀逸な物語の装置と言える。混乱した町にやってきて大暴れして去っていく西部劇のガンマンのストーリーに似ている。
数学とタイガースのエピソードの使い方もうまい。数学者に設定された理知的でややマニアックで禁欲的な人物像が秀逸、タイガースファンがもつ野球ファンの中でもとりわけ熱狂的な特性など、この物語を織り上げる上で欠かせない要素となっており、これ以外考えられないほどうまい組み合わせになっている。まだこんな手があったと感心する場面がいっぱい。
文体は硬質で緊密、作り物めいたストーリーにぴったりあって、べとべとせず乾いた叙情性が快い。小川洋子の文体だからこそ生まれた物語。
読み終えて、記憶の彼方、過去から浮かび上がってくる博士と母屋の未亡人の「永遠の愛」の白黒写真の印象は鮮烈。次の未亡人の台詞の意味深長なことはどうだろう。
「義弟は、あなたを覚えることは一生できません。けれど私のことは、一生忘れません」
博士と家政婦と未亡人の三角関係の物語。一切のどろどろなしで、かくも鮮やかにしかもさわやかに描き出された三角関係の物語を私は他に知らない。読後感は最高。
 まだ読んでいない人、是非、読んでみて。