武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

  最近、ふとしたきっかけから、島崎藤村の長編「夜明け前」を読み出した。2部構成で、文庫本は上下に分かれるので4冊になる長編、しんどい話だが、読み始めたら、巧みな設定と緻密な時代考証に基づいた重厚な展開に引き込まれ、飽きずに読み続けている。先を急ぐ若いときだったら研究目的でもなければ、興味深く読めなかったと思うが、ゆっくり展開する厚みのあるストーリーを楽しめるような年齢になったので、けっこう楽しんでいる。

toumeioj32005-09-21

 第一部の上巻は、嘉永6年(1853年)6月頃から話が始まる。いわゆるペリー浦賀来航の年、長年続いた江戸幕府が、欧米の圧力を受けて徐々に崩壊の時を刻み始める年。誰が読んでも、作者が描こうとしているのは幕末の変革の時代だと言うことはすぐ分かるが、舞台装置が素晴らしい。
 舞台は、京都でも江戸でもなく動乱の中心から遠く離れた木曾街道の馬籠の宿場周辺、以前からのこの国の住民の生活が営まれている一地方社会。江戸や京都に発生する変革の波紋が、イデオロギー的なまたは事件性を帯びた政変劇の外皮を落して、生活への間接的影響に形を変えて、響いてくる。藤村は、歴史の変動を、上っ面ではなく、国民すべてを巻き込む底辺の流れとして捕らえようとして、木曾街道馬籠を舞台として選んだに違いない。
 しかも、狂言まわしの役者として動き回る主人公(かなりの部分は作者の父親像)である青山半蔵父子の設定がこれまた素晴らしい。地域社会がこうむる影響を通して歴史を描く設定にもかかわらず、主人公青山半蔵は、国学イデオロギーに生きようとしている目覚めた地方人。江戸と京都の動向を常に情報収集し、いつも気にかけている人物、しかし、父の家業を継承し、家を離れることのできない立場にあり、焦燥に身を焦がす矛盾した葛藤にあえいでいる。目覚めた生活者を通さなければ見えてこない歴史的真実は重い。生活から切り離された新撰組も勤皇の志士も、歴史の泡であって、底流にはいない。しかし底辺にいても物言わぬ民衆では歴史のドラマにはならない。青山半蔵は素晴らしい歴史装置だと思う。
 これらの2点からだけでも、歴史小説の設定としては、文句なく優れている。しかも取材が綿密で、記述に冷静な情熱とでも呼びたくなるある種の落ち着きがあり、ゆったりと読ませてくれる。現在、第一部の下巻を読んでいるところだが、倒幕に向けて時代はますます熱気を帯び、起伏が大きくなってきている。
 近代のこの国の始まりは、そもそもが江戸幕府の崩壊と明治維新にあるわけだから、この物語はもしかするとこの国の近代の始まりについて、何か言いたいことがあるのかもしれない。気が付いたことがあれば続編を書くつもりで、ここで一区切りとする。