武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『弟の戦争』 ロバート・ウェストール著 原田勝訳 (発行徳間書店)

 小学校中・高学年向けの児童書ながら、豊かな寓意に富み大人が読んでも十分に楽しめると言うか、いろいろと考えさせられる素晴らしい一冊を紹介したい。出来のいい作品によくあるようにこの物語は奥が深く、考えようによってはいろいろな読み方が可能なようにできている。現代の戦争が大きな主題であることは間違えようがないが、そこに絡んで家族と世界をめぐるいくつものテーマが交錯してずっしりとした読後感を残す。翻訳の日本語に癖がなく、とてもなめらか、もともと日本語で書かれた物のような感じを受けるほど、日本語がこなれていて読みやすい。

 どこにでもよくあるような男の子2人の4人家族に起きた不思議な出来事の物語。語り手は兄の<ぼく>に設定され一人称の視点で記述されるので、自然に物語の中に引き込まれる。語り手の3人家族に弟が生まれ、その弟を中心に物語が動いてゆく。
 物語の語り口が素晴らしい。ウィットにとみピリッと辛くて、しかも芳醇な口当たり、切れが良くてなめらか。叙事詩のように味わい深い文体がスピードにのってぐいぐい物語を進めてゆく。
 主人公のフィギスと呼ばれる弟は、素晴らしく頭が良くて、感受性に富み想像力の豊かな子どもとして成長、やがて優れた感受性と想像力の延長線上に不思議な超能力が目覚めてくる。強く興味を引かれた人や物の中に入り込むことができる能力を獲得、さらにその能力が進化して入り込んだ人が強い場合には、その相手に取りつかれるまでになってしまう。素晴らしいはずの能力が、やがて家族を巻き込み家族を苦しめ、家族を崩壊の淵にまで導いてしまう流れはリアルで非常に怖い。
 世界の危機をテーマにしたファンタジーの冒険ものが人気のようだが、この物語は現実逃避の魔法少年物語と大きく違う。読み手に現実の世界を痛いほどリアルに突きつけてくる物語とでも言えばいいか。アンチ・ファンタジー小説なのだ。
 物語の頂点になるのは、弟フィギスにイラクの少年兵が憑依して湾岸戦争に家族が巻き込まれてしまう場面、当時のテレビニュースを介して見にしていた映像よりはるかにリアルで怖い。精神科医のラシード先生がでてくるあたりから物語はさらに深まり、現代の宗教戦争の色彩を帯びているイスラム教とキリスト教問題、民族差別の問題などを絡めて、現代の世界の本当の怖い話を巻き込んで物語は進んでゆく。
 抜群の語り口なので自然な感じのまま次第に、物語は現代世界が孕む重要課題を次々と抱え込みながら、<ぼく>と主人公の家庭を消耗させ形骸化させ崩壊へと導いてゆく。簡単な解決策のない現在進行形の問題だけに、小さな4人家族が崩壊するこの物語はそくそくと身に迫る。現在もなお進行中で、双方に膨大な死者を生み出しつつあるイラク戦争のことを思うと、なお辛くなる。今、イラク戦争に対して世界は反戦運動のきっかけすらつかみかねている現状にある。この物語は、そのことを読む者に問いかけてくる。
 世界中に、「弟の戦争」を体験する家族が増えると、少しは現代の戦争を考える世界の見方が改善されるかもしれないと願いつつ、この本が多くの読者に迎えられることを期待したい。