武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『石原芳郎「昭和」の旅』 多田茂治著(発行作品社)

 今は亡き石原吉郎という詩人をご存じだろうか。かつて私が20代だったころ、苦渋に満ちたその鮮烈な詩表現に心酔し、70年代半ばあたりから何となく関心を失い、77年の晩秋に新聞で訃報を目にしたが、それっきりになっていた。そんな思い出深い戦後詩人。
 今回、そんな石原吉郎の評伝を手にして、改めて石原吉郎という詩人を見直すとともに、この評伝そのものの素晴らしい出来栄えに感心したので紹介したい。
 作者があとがきに記しているように、本書を書いたのは「石原吉郎の生涯を、昭和史の一ページとして位置づけたかったため」としているが、この言葉がこの本の特徴をよく表している。全7章からなる全体の前半、1章から4章までが石原吉郎が体験したソヴィエトでの抑留生活、53年12月に生きて帰国するまでを詳細に取材して、実に丁寧に跡付けている。15年に伊豆の土肥に生まれて38歳までの何と波乱に満ちた前半生であることか。かっちりとした堅固な文体が、辛酸を極めるシベリアの抑留生活を克明に描き出す。
 まず何よりも感心したのは、多田さんの鍛え抜かれた見事な散文。相当に詩人石原吉郎に引きつけられたからこその取材と二度にわたる出版への取り組みだと思うが、きちんと対象との間に距離を置いた明晰な記述が実に見事。石原吉郎のように体験したことが特異でその結果たどりついた作品世界も傑出した表現者をとらえるには、このような文体がベストかもしれない。書き手としての多田茂治は見逃せない。
 後半の5章から7章の不慮の死を迎えるまでは、石原吉郎の日本人としては極めて特異な、54年(昭和29年)からの戦後生活と詩人としての成長過程。この後半部分には、無いものねだりだが、若干不満が残った。過酷極まりない抑留生活を人生の核として抱え込んでしまった石原が、戦後日本の高度成長からバブルに向かってひた走る周囲に抱かざるを得なかった疎外感を、表現を通してもう少し掘り下げてもらいたかったという気がしないでもない。人は多く、周囲との状況で変化するものだが、シベリアを抱え込んだやや不器用な石原には無理な注文だった。追い詰められてゆく石原の押し殺した悲鳴が聞こえてくる。
 60代前後の、ほとんど人間として崩壊の瀬戸際にまで追い詰められていた石原の苦境を、周囲の多くが理解できなかったか、理解しなかった状況が何とも痛々しい。1975年、昭和50年で石原は還暦の60歳、すでにこの国のマスコミからは「もはや戦後ではない」の声が何度も聞かれ、バブルに向かって虚妄の繁栄への道を走りだしていた。限りなく自死に近い不慮の死、。一人の詩人の苦難に満ちた人生が、ずしりと伝わってくる。目次を引用しておこう。

第1章 ハルピン
 1、電々護軍寮
 2、日本人狩り
第2章 アルマ・アタ
 1、輸送梯団、西へ
 2、飯分けの儀式
 3、精神の暗渠
 4、陸軍露語教育隊
第3章 バム地帯
 1、市民大隊の受難
 2、ロシア国刑法第五十八条
 3、走る留置場の惨
 4、沈黙の密林
第4章 ハバロフスク
 1、『癩院受胎』上演
 2、日本海、不安の海
第5章 ロシナンテ
 1、風に還る
 2、棒をのんだ話
 3、耳鳴りのうた
第6章 埼玉県入間郡福岡村
 1、四十八歳、処女詩集
 2、抑留エツセイの辛酸
 3、フェルナンデス
 4、ユーカリのみどり
第7章 北鎌倉
 1、底知れぬ疲労
 2、北方水準原点
 3、突然の死の刻

 特異な戦後詩人、石原吉郎に興味のある方には是非お勧めしたい。石原吉郎詩篇や抑留生活に取材したエッセイも、熟読に値する傑作ぞろいなので、是非手にとって見てほしい。