武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 梅雨の晴れ間のお江戸行

 先日から気になって調べている首都圏廃棄物の広域移動実態が、環境省の資料室で調べられることがわかったので、久しぶりに霞が関まで行ってきた。その途中、いつかは来ると思っていた衝撃的な事件に遭遇した。 (画像は、道端で見かけた咲きだしたばかりのアジサイ)

 池袋で地下鉄に乗り込んだとき、空席を探したが全部ふさがっており、あきらめて立ってゆく覚悟を決めた折も折、目の前の学生風の青年に「この席どうぞ」と言われ、席を譲られてしまった。とっさに「ありがとう」と言って席に着いたものの、座ったとたん、「ついに来た」と言う衝撃が頭の中でガーンと鳴り響いた。
 青年は、私のことを病人や障害者と見たのではなく、明らかに席を譲るにふさわしい老人と判断したようだった。ジーパンにウォーキングシューズ、黒いデイパック、綿の縦縞のワイシャツ、老人っぽくならないように気をつけたつもりが、裏目に出たか、何となく顔が熱くなり思わず周りの人の表情を見てしまった。誰も、今しがた私が受けた衝撃に気づいた人はいないようだった。
 いつかそんな瞬間が来たら、断ろうか受け入れようか考えていたが、瞬間的に受け入れてしまっていた。断っていたら、かえって恥ずかしい思いをしたかもしれない。あれはあれでよかったのだと思い込むことにした。
 今から30年程前、冬の晴れた日曜日、息子を連れて近くの公園へ手作りの凧を揚げに行ったとき、背後から小学生に「おじさん、その凧本当によく上がるね」と声をかけられた。感嘆をこめた賞賛の声だったのに、「ありがとう」と素直に受け入れることができず、思わず憮然としてしまった。あれが初めて「おじさん」と呼ばれた瞬間だった。周りには、大人の男は私一人しかいないのを確かめて、鈍い衝撃が背筋を這い上がってきたのを覚えている。
 傍から見ると、本人が思っている以上に、年齢の表情が外に出てしまっているのだろう。このようにして、人は確実に年をとってゆくにちがいない。これまでは、シルバーシートが空いていても、普通の席に座るようにしてきたが、少しずつこだわりを減らしていったほうがいいのかもしれない。