武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 イギリス旅行10日間⑤

 今日から3日間は、湖水地方からロンドンに向けて、いくつかの観光地を訪れながらの長距離移動。まずは、2000年前の古代ローマ帝国時代の城壁が残る中世都市チェスターへ。
 イギリスの自動車専用道路(高速道路)は原則として無料、道路整備も行き届いていて道路状況はとても良い、渋滞さえなければ快調に移動可能。
 さて、チェスター市内の中世の町並みは、木組みの家々が見事、ローマ人が築いた城壁の中の旧市街地は家屋が密集しているものの、街並みをそのまま保存、古代ローマがここまで来て防御の固い要塞都市を築いたことに感心する。街の商店が並ぶアーケードは2階建ての二重構造、天候が崩れても買い物がしやすい面白い街づくり、ふたつの道路が交差するザ・クロスと呼ばれる場所で昔ながらの「おふれ役人」のパフォーマンスが観光客相手に行われていた。 (画像はおふれ役人のパフォーマンス、背後に2階建てのアーケードの街並みが見える、世界各地からの観光客が楽しんでいた)
 80k移動して今度は、ストーク・オン・トレントという町の陶磁器工場、ウェッジウッドのビジターセンターを見学。あまりに高価で実用品というよりも装飾品として飾られることの多い、美しい陶磁器、繊細な装飾の手書きの工程は、さすが。焼き窯からでると思われる刺激臭に頭が痛くなった。工場を郊外に作らざるを得なかった理由がよくわかる匂いだった。バグフィルターと思われる集塵装置が設置されていたが、異臭は取り除けていなかった。ガス化した重金属が排出されていなければいいのだが不安になった。
 ここから、さらに100km移動して、コベントリーという町に宿泊。後で、ネットで調べて知ったことだが、この街で第二次大戦中「コベントリーの悲劇」と呼ばれる事件があったという。まるで、スパイ映画のワンシーンのような出来事だが、何とも悲しい歴史の町。知らない人が多いと思うので、全文を引用しておこう。

 大戦末期、ドイツはイギリスのコベントリーという町にV2ロケットの照準を合わせた。そして、その情報をナチス内部に潜入していたイギリスのスパイがキャッチした。
 そのスパイからの通信を受け取ったイギリス情報部の長官は、真夜中に時のイギリス首相であったウィンストン・チャーチルに連絡を取る。無論、チャーチルは町の人々を避難させようとした。しかし、情報部の長官は彼にこう言った。
「あなたはコベントリーの町の何千人かの人々を助けるかもしれない。しかし、我々の重要なスパイは発見され、処刑されるでしょう。」
 この情報は、ナチス内部のスパイをあぶりだすオトリ情報でもあったのだ。事前に町の人々が避難すれば、ナチス内部のスパイの存在がドイツ軍の知るところとなり、彼は処刑される。そしてその結果、将来数万、数十万の生命が失われ、ナチズム壊滅させるチャンスを失う事になる。
…大事なスパイか、コベントリーの住民か…
 チャーチルは一晩中考え抜き、ついに泣きながらコベントリーの町を見放した。そして、3000人の人間が死んだ。
 だが、生き残ったスパイの存在によってノルマンディー上陸作戦は成功し、ナチズムを崩壊させる事に成功したのである。

 イギリスでは有名な大戦逸話なのかもしれない。この種の話は、いくつも残っていることだろうが、その地に立ってみると、物語が単なる物語ではなく、リアルさを伴うので辛くなる。3000人の子孫が今なおこの街で暮らしていると思うと・・・。
訂正と追加 その後、コンベントリーの悲劇について調べたところ、次のように記述に遭遇した。

この空襲で、50,749戸の家屋が破壊され、554名の死者、865名の重傷者、4,000人におよぶ市民の火傷、怪我人をだした。

 出所がいまいち不明なので、どちらが正しいか判断できないが、追記しておく。コンベントリーを<殉教都市>と呼ぶ人もいる。コンベントリーの悲劇のストーリーには、ドイツの暗号解読をめぐるストーリーもあり、どれが本当のことかわからなくなってきた。