武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『百人一首』 大岡信著 (発行講談社文庫1980/11/15)


 今と比べると極度に娯楽が少なかった昔の子ども時代、12月になると近所の悪ガキが誘い合って誰かの家に集まり、いつの間にか百人一首で遊んでいた。北国の冬は、12月ともなると曇りや雨霙の日が多くなり、気温が下がると雪が降り出す、そんな時、屋内の遊びとして百人一首が流行ったものだった。昔の子どもの遊びには、はっきりした季節感があった。季節を無視しては遊びそのものが成立しなかったのだ。
 上級生の中に結構作者や歌の内容にも詳しいのが居て、そんなチビガキ同士が拙い聞きかじりの蘊蓄をやり取りしながら、炬燵を囲んで時がたつのを忘れて百人一首で遊びふけったこともあった。今は懐かしい思い出の一齣である。
 中学、高校と古文を習うようになって、何度か授業にでてきて、ガキの頃の手探りの解釈が案外当たっていたことを懐かしく思い出したこともあった。
 だが、読み物として細部の微妙なニュアンスまで掬い上げて、丹念に味わい楽しむようになったのは、さらに大人になってから、特に、今回紹介する大岡信の現代詩訳付きの講談社文庫を読んだのが大きなきっかけとなった。
 著者が前書きで書いているように、高度で優雅な言語の華であるはずの詩文の通釈が、古文解釈の正確さにとらわれすぎて、味も素っ気もない現代語訳が多くて、興醒めすることの何と多いことだろう。解釈は解釈、表現は解釈の鎖をほどいてもう少し色っぽく出来ないものかと不満だった。百人一首でもう一度、大人っぽく優雅に遊んでみたかったのである。
 この大岡信著の百人一首は、そんな不満に見事に答えてくれる。さすがに日本語の表現を駆使する気鋭の現代詩人(これは本書を執筆していた頃のこと、今は大家の風格あり)、大岡信のいわば現代詩訳の百人一首は、通釈に何とも言えない色気が感じられて、こんなに楽しく百人一首を読み物として楽しんだのは初めてだった。一首ごとの意味と情趣のふくらみを、5〜6行の現代詩として再現する試みは、心豊かな言語の楽しい遊び心を刺激して何とも心地よかった。大岡信の言語感覚の素晴らしさに改めて脱帽した一冊だった。
 一首ごとに付された解説も、要領よく簡潔で、次から次へと通読してゆくのに、ほとんど抵抗感がなくすいすい読めるのも本書の特徴、百人一首の本は何冊か手にしたが、今も手元に残っているのは本書と、岡田嘉夫の絵が素晴らしい田辺聖子のものだけになった。