武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 新たな生活空間の構築(6)


 山荘と現住所との二箇所を利用する生活スタイルを、もうすこし客観的な視点から眺めてみようとネットでいろいろ調べ回っていて、<半定住><二地域居住><多自然居住><週末田舎暮らし>などなど、いくつもの耳慣れない語句にであった。いずれにも共通しているのは、2007年から始まった団塊の世代の退職と、2006年から始まったこの国の人口減少を視野に入れて、過疎化が進む地方の振興と、各地ですすむ空き家対策の一環として考えられている事らしいということが分かった。経済的なターゲットは、一斉に退職する団塊の世代の膨大な退職金である。

 それで気がついたことだが、昨年の暮れ頃から突然に思いついて始めた空き家探しで見つけた山荘は、その利用期間を考えると高齢者医療で言われる前期高齢者でいられる75歳あたりまでだろうということに思い当たった。元気な期間をもう5年欲張ったとしても80歳あたりが限度ではないだろうか。つまり、上手くゆけば今後の10数年間ぐらい山荘ライフを楽しめるとすれば十分ではないだろうか。
 通常、後期高齢者になると知力も体力も気力も衰えて、病気がちになる人が圧倒的に多くなる。多分、その頃になると雑木林の手入れも億劫になってくるのではないだろうか。山荘暮らしを客観的に見つめなおそうとして、今後の長期的な見通しがぼんやりながら見えてきた。

 調べていて気になるフレーズに遭遇した。二つの地域に住居をもって利用している人を半ば批判的に「都会の便利さと田舎の自然」の<いいとこ取り>ではないか、という指摘である。暮らしに伴う負の側面を回避して、都合の良い所だけをつまみ食いしているだけではないかというのである。
 個人的には、その通りだと思う。そもそも何らかの良いと感じるポイントが幾つかなければ、その土地に家がほしいなどと考えるはずがない。気に入ったからこそ住みたいと考えるのである。ニュアンスにはズレがあるかの知れないが<いいとこ取り>になるのは間違いない。それっていけないのと、逆に反問してみたくなる。
 都市にいても田舎にいても、地域のコミュニティ活動を避ける人はどこにでもいる。社会性の豊かな人は、どこにいてもコミュニティに加わり地域の奉仕活動によろこんで加わってゆく。個人の性格の問題ではないだろうか。二つの地域に住まいを持つ人が、特異的に非社会的で我儘だと言えないのではないだろうか。個人的には、山荘のある地域社会の活動には、普通に協力し参加してゆきたいと考えている。

 最近、精力的に取り組んでいるのは廊下の作りつけ本棚、建物自体が微妙に傾いでいて正確な直角がとれない。マンションなら欠陥住宅として文句を言うところだが、高低差のある土地に建つ木造住宅なので仕方がない。予定を変更して、建物に合わせるしかない。廊下の両側を全面書架にして、蔵書の収容能力を高めようと作業中である。近いうちに、右側の壁面だけは何とかするつもり。(上の画像はその渡り廊下、広角レンズの威力で不動産屋さんの写真みたいにすごく広く見えるけれど単なる普通の廊下です)