武蔵野日和下駄

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 新たな生活空間の構築(19)


《自然災害のリスク評価その1》

二つの地域に住まいを構えることには
生活のリスクを分散するという意義がある。
例えば、一方に風水害の危険が予想される時
もうひとつの住まいに避難して安全策をとることができる。
どちらかが地震や火災などの予測不可能な被害に遭遇した時も
他方の住まいに生活を移すことができる。
いずれにせよリスクの回避分散の手段として二地域居住は有効。
そのためには、どちらの地域にどんなリスクがあるか
その地域が抱えるリスク評価が欠かせない。
新しい住まいとして入手した山荘周辺の
自然災害リスクについて考えてみることにした。


風水害などの気象災害のリスクについて、
購入の際に、前の所有者に伺ったところによると
山荘を建てて現在までの20年近く
一度も自然災害にみまわれたことはないらしい。
敷地にある樹齢100年を超えるような見事な赤松の切り株を見ても
相当の長期にわたって安定した地形だったことが分かった。
しかし、敷地の脇を流れる沢の近くに
行政の土石流の危険表示があり気になった。
(右の画像は行政が設置した近くの沢の警告表示)


行政の土石流対策のHPなどを調べてみた。
どのような気象条件の時に土石流のリスクがあるのか
危険が予知できなければ逃げるタイミングが分からない。
山荘脇の渓流の具体的な危険性についてまでは分からなかったが
土石流発生の気象条件として
有名なカスリーン台風が想定されているらしいことが判明した。


そこで昭和22年、1947年9月に発生した
カスリーン台風について調べてみた。
以下はウィキペディアカスリーン台風の<規模および進路>からの引用。

(略)カスリーン台風は1947年9月8日未明にマリアナ諸島東方において発生し、
次第に勢力を増しながら9月14日未明には鳥島の南西 400 km の海上まで北上。
このとき中心気圧は 960 mb (960 hPa)、最大風速は 45 m/s に達していたと推定されている。
その後台風は、15日未明に紀伊半島沖の南、北緯32度付近で進路を北東に変え、
勢力を弱めながら同日早朝に遠州灘沖合いを通過(中心気圧は 970 mb と推定)。
夜に房総半島南端をかすめ(上陸したとする見方もあるが、気象庁の公式見解では房総半島沖通過)、
16日には三陸沖から北東に去っていったとされている。
台風そのものは本州に近づいたときにはすでに勢力を弱めつつあり、
進路も東海地方から関東地方の太平洋岸をかすめただけであったため、
強風による被害はあまり出ていない。
しかし、台風接近時の日本列島付近には前線が停滞していたと推定されており、
そこに台風によって南からの湿った空気が供給され前線が活発化。
これが9月14日から15日にかけての戦後治水史上に残る大雨を降らせたものと考えられている。

次は<被害状況>から引用。

この台風による死者は1,077名、行方不明者は853名、負傷者は1,547名。
その他、住家損壊9,298棟、浸水384,743棟、耕地流失埋没 12,927 ha など
、罹災者は40万人を超え、戦後間もない関東地方を中心に甚大な被害をもたらした。
特に、群馬県赤城山麓や栃木県の足利市などにおいては土石流や河川の氾濫が多発し、
これらの被害者を中心に群馬県では592人、栃木県352人の死者を出している。
また、利根川や荒川などの堤防が決壊したため、
埼玉県東部から東京都23区東部にかけての広い地域で家屋の浸水が発生した。
この地域で大規模の洪水が発生するのは
1910年(明治43年)8月の大洪水(略)以来であった。
なお、東北地方では北上川が氾濫。岩手県一関市などで被害が出ており、
岩手県内では109人の死者を出している。
大きな被害が出た要因として、大量の雨がほぼ一日半の短い期間に降ったこと、
戦時中や戦後復興の木材消費により山林が荒れ、
保水力が低下していた事が挙げられている。
9月14日から15日にかけての主な降水量は、
秩父 610 mm 、箱根 532 mm 、日光 467 mm 、前橋 391 mm 、熊谷 341 mm 、
網代 329 mm 、尾鷲 256 mm 、宇都宮 217 mm 、仙台 186 mm となっている。

これでカスリーン台風の規模と被害の概要がわかった。
カスリーン台風の勢力と同程度の台風が
日本列島に接近し、前線が停滞する状況になると、
最悪の場合、同程度の被害が発生する条件がそろうことになる。


では、そのような気象条件で、
赤城山山麓には、どのような気象災害が起きたのだろうか。
もう少し詳細な記録がないか探してみた。(続く)