武蔵野日和下駄

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 新たな生活空間の構築(20)

《自然災害のリスク評価その2》

内閣府のHPにある<防災情報のページ>に
「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書−1947 カスリーン台風」なるものを見つけた。
その[第1章 カスリーン台風利根川流域]に相当に詳細な
カスリーン台風により発生した赤城山の土石流被害の記載がみつかった。
カスリーン台風による赤城山麓の土石流発生は、
山麓全域で550箇所にのぼるほとんどすべての沢(渓流)で発生したが、
特に被害が集中したのは、赤城山西麓の沼尾川流域と、赤城山南麓の荒砥川周辺だった。
そこで、この二つの河川で生じた事象について引用を中心にまとめておこう。
(画像は被害発生の前日の天気図、避難するならこの時点で)

まずは、 沼尾川(赤城山西麓)で発生した土石流について。
特徴的なのは、極めて短時間に事象が集中し、
ほぼ瞬時にして甚大な被害が発生するということ、
気が付いても避難したり逃げたりする時間はないので
危険を予測してあらかじめ安全な場所に避難しておくことが大事だということ。

沼尾川流域では、カスリーン台風の5〜6日前から降り続く雨によって赤城山麓の地盤が緩んでいたところ、14、15日に9割以上の降雨が集中し15日朝より夜8時ごろまでに400mmという豪雨が降り続いた。これにより、沼尾川は増水をしてきたため、辻久保部落付近では、堤防が危険と感じ、警防団の出動を行い待機していた。正午ごろには、やや減水したため、警防団は一時解散して引き上げたが、降雨はこのころより一層激しくなり、午後3時ごろ山鳴りと同時に前入沢が抜け、約20分後に本流が抜け、土砂、軽石、立木が濁流とともに大土石流となり、さらに30分後に中入沢が抜け出し本流の濁流の上を3丈(10m)ほども高い波状で流れ込んだ。深山部落周辺では、土石流の発生の直前まで沼尾川の出水は、大した変化もなく、突然の出来事で逃げる余裕もなく150mも流された人もいた。土石流が、小山のように押し出して流下したのは極めて短時間で、目撃者によると10分と続かなかったと言われている。なお、土石流の通過後1〜2時間後には、水は急激に減少し、荒廃した河原を自由に通過できる状況となった。

津波の形状の描写が凄い。
高さ10〜15mの動く小山が押し寄せてきて
瞬時にすべてを押し流してしまう。
巻き込まれたら脆弱な人体など
挽肉のように粉々に粉砕されてしまだろう。
なにはさておき逃げるしかないことがよく分かる。

この土石流によって、深山部落は一暇にして大半を根こそぎ押し流され、1935(昭和10)年災害復旧で完成した護岸工事(幅5m)も跡形もなく流失し、沿岸の道路、橋梁の流失はもちろん、田畑は大転石、土砂に累々として覆われ、見る影もなく荒廃してしまった。山津波の押し出してくる有様は、立木は立ったまま地響きを立て、3〜4丈(10〜15m)の小山状をなして押し出し、瞬時に流れ去った後は地上一物も残らず、深さ2〜3丈(6〜10m)の切り立った谷間と化した。また、その下流部では土石流により宅地、農地に巨石などが約2〜5m堆積する有様であった。この土石流は、上越線鉄橋を押し流し利根川本川に出て本流の洪水を約15分程度堰き止めた後決壊し、洪水とともに下流に流送された。この時、利根川の水位は上昇し、本川上流部の狩野部落4〜5軒を浸水させた。

つぎの土石流の形状についての物理的な解説が凄い。
わたしは押し寄せる東京ドームをイメージして背筋が寒くなった。
感情抜きの非文学的な説明がなんとも怖い。

なお、土石流の先端は小山のように高く盛り上がり流下するが、これは、先端部は一般に摩擦が大きく流速が小さくなり、後方より流下する部分は流速が大きく先端部に乗り上げ、盛り上がる。また、横断的にも洪水中の流水と同様に最も速度の大きい部分は、断面中央で四方に向かって次第に速度が小さくなる。したがって、中央部は後方より押し上げられ、次第に両側に向かって移行する。その結果、中央が高くドーム状の断面が形成される。
これらの土石流の流下により、谷は侵食されるが、土石流の下部では比較的粗大な石礫と土砂が渦巻きの運動を行い、上流に向かって次第に微細なものの渦巻きの運動を行って前進する。このときに土石流によって侵食を受けた谷がU字型に発達する。

以下の被害状況のまとめを読むと
人口密度の薄い戦後間もない時期だったこともあり
災害の大きさに比べて被害が少ないという気がした。
人口密度がはるかに高い今日この事象が発生したらどうなるか。
想像すると恐ろしい。

深山における土石流による被害は住民902人中死者31人、重軽傷者18人、家屋156戸中流失78戸、田3町中流失2町6反、畑120町歩流失という惨状であった。また、敷島村役場の沼尾川流域災害記録(1947)によると、洪水後は、沼尾川沿いの70数軒は全く跡形もなく、美田とともに押し流されて一面石河原となり、削り執られた深い谷間の底深くを、沼尾川本流が泥濁りとなって流れている状況であった。

次の当時の収入役さんの被害状況のまとめには要注目、
その土地に古くから住む旧家はほとんど無事で
他所から移住してきた新住民に被害集中したという。
地名でいうと沢や谷に関係したところはほとんど流されたとある。
古い地名はあなどれないと改めて感じた。

この災害の状況を当時の収入役は取りまとめている。それには、前山窪の流失した谷間の底から2、3百年くらいは経ったものと思われる埋まった木材が出てきた。この木の下には軽石の層もあり、この軽石の噴出後のものであり、谷間に繁っていた樹木が過去の水害土砂で埋まり、今回の大規模な土石流の侵食で元の谷間まで洗い出されたと思われる。以前から、このような土砂流出は何回となく繰り返し、発生し谷間に堆積していたところと思われるとある。被害住宅の大部分は、新宅、分家、他から移住してきた家が多く、その土地の旧家、古家、大本家などは大体無事であり、地名で見ると、清水、関下、小川田、川久保などの水に関係あるもの、五郎入栗の木沢、南雲沢、黒沢、鍵沢など沢に関するもの、辻久保、鳩谷、三島谷戸、栗谷下、岩根、入ノ久保などの谷間に関係するところはほとんど流されているとある。

続いて赤城山南麓の荒砥川の被災についてみてみよう。
こちらのほうが我が山荘のある場所に近い。
しかし、前に引用した沼尾川の事例ほど詳しくはない。
流失した家屋数を比較するとこちらの方が多いので、
ほぼ同様か、あるいは沼尾川以上の土石流が発生したのかもしれない。
記録の保存状態の違いによる記述量の差異だろうと推測する。
こちらでも「一瞬にして」という記述が目を引く。
事象が始まってからでは避難は間に合わないということである。
あらかじめ事態を予測して避難しておく以外に
リスクを回避する手段はないということを肝に銘じておきたい。

赤城山から流れ出る荒砥川沿川にある大胡町では、15日、豪雨一層強くなる中、消防団をはじめ各団体により沿岸、橋梁の警備に努めていた。正午ごろより増水がますます激しく、町民は避難をはじめた。午後2時半ごろ、大音響が起こり、雷雨が轟き、荒砥川上流より約2mの高さで、濁流が一気に大胡町の中心を目指し、根古屋部落を押して天神横町に向かい、二手に別れて本流は沿岸を洗掘し、支川の一つは西より来る濁流と合して、仲町を経て下町から琴平町貫流した。この突然の浸水により、町民は右往左往し、消防団などは住民を安全地帯に誘導し、付近の小学校、中学校、城山、大胡神社等に避難させた。この洪水で、流失した家屋124戸をはじめ全潰半壊97戸で、浸水家屋は流積した土砂が堆積して床上1mも埋没し、家財道具は一つも残さず流失し、一瞬にして食べるもの、着る衣もなく住む家もなくなった人は600世帯2,550人となった。家屋とともに耕地も土砂に埋まった。水害後の土砂の搬出には非常な努力を要し、各家から運び出された土砂は街路上に置かれ、家の塀や2階よりも高くなり、一時は通行できなくなるほどであった。
天竜川における土石流は、同日14時ごろに上流部での崩壊による大音響が響き、16時ごろには泥流が溝呂木に到達し、その30分後には支川田之郷川から押し寄せてきた土石流と合流したためその勢いを増し、17時近くには県道船戸橋付近に達し、一面石河原となった。その他、赤城白川、粕川、赤城川、利根川等の土石流もほぼ同様の形態で発生しており、各流域とも深刻な被害を出し、広い河原を跡に残した。

以上、内閣府の報告書を沢山引用させていただいたことに感謝します。
災害は忘れた頃にやってくるということを忘れないようにしたい。