武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 猪谷六合雄の生涯と文章(その2)『雪に生きる』 猪谷六合雄著 (発行羽田書店1943/12/5)

 この国にスキーブームなどという現象が来ようとは想像することもできなかった大正から戦前の昭和にかけての時代に、スキーに夢中になりジャンプに熱中し、いつの間にか独創的なスキー指導者になっていた明治の男の胸のすくような爽快な回想録。至る所に個性的な工夫と知恵が散りばめられていて、物作りの楽しさと冒険小説のスリルが同時に楽しめるような面白さが読む者を虜にする。 (画像は昭和18年の1刷5000部発行された、定価が3円90銭特別行為税相当額15銭合計4円5銭となっている。一時期ベストセラーになったので各種の再版がある)
 内容はもちろんスキーのことやジャンプのことに相当のスペースを割いておりそれが主な柱になっているのだが、スキーから話が脱線して思いもかけない方向へと展開したり、苦難に遭遇して知恵と体力と幸運のおかげで何とか解決したりするスキー以外の話がこの本の豊かさと奥行きを作っている。 猪谷には独特のライフスタイルがあり、何をしても憎めない朗らかな個性があり、生きた軌跡には良質の物語のような魅力がある。巧まざるユーモアを随所に散りばめた文章から、見事な生涯だったことがこの本から気持ちよく伝わってくる。
 順を追って、面白いところを紹介してゆこう。

[第1篇赤城山時代]
1 スキー揺藍時代
2 スキー行脚
3 スキージャンプ人門
4 スキージャンプ練習時代
5 二つのジャンプ大会
6 赤城山を出る
7 北海道へ渡る
8 阿寒付近
9 摩周湖

 年譜の対応する部分も引用しておこう。()の数字は猪谷六合雄の年齢。右の猪谷家家系図佐藤浩美氏の労作「光太郎と赤城-その若き日の哀歓」からの部分引用。プライバシー侵害のおそれがあれば削除します。

明治23/05(00) 赤城山に生る。
  30/04(06) 前橋の小学校へ入る。
  35/02(11) スケートを始める。
  38/07(15) 水絵を描き始める。
  39/03(15) 館林中学修業。(中途退学のこと)
  41/01(17) 油絵を描き始める。
  41/10(18) 1坪の部屋を作る。
  42/03(18) 飛行機の模型を作る。
  42/05(19) 4分の1立方坪の小屋を作る。
  43/01(19) 結婚。
  43/02(19) 丸木舟を彫る。
  43/12(20) 気球隊入隊。
大正02/12(22) 除隊。
  03/01(23) スキーを始める。
  03/04(23) 紙の舟を作る。
  03/05(24) 父の死。
  03/08(24) 初めての大島行。
  03/10(24) 秀雄生る。
  03/10(24) 応召。但し出征準備中に戦終る。
  04/05(25) 赤城山へ志賀氏の小屋を作る。
  05/05(26) 母と大島へ行き、泉津で家を借りる。
  06/02(26) 小笠原行。
  07/04(26) 初めてスキーの展覧会を見る。
  07/09(27) ジャワヘ行く。
  09/04(29) ジャワから帰る。
  09/06(30) 離婚。
  10/09(31) 写真を始める。
  11/06(32) 組立小屋を作る。
  12/01(32) 母の死。
  12/03(32) 赤倉行。
  13/02(33) 樺太行。
  14/02(34) 朝鮮行。
  14/02(34) 靴下を編み始める。
  15/01(35) 再婚。
  15/01(35) ジャンプ入門。
  15/08(36) 利根川の水源探検。
昭和02/02(36) 目を突く。
  02/02(36) 第四シャンッエを作る。
  02/06(37) 槍、燕行。
  03/10(38) 阿蘇、雲仙行。
  03/10(38) 第五シャンッエを作る。
  04/02(38) ジャンプ大会。ヘルセット来る。
  04/03(38) 大島行。
  04/05(39) 立山ヘジャンプスキーを持ち込む。
  04/06(39) 駒ガ岳、阿寒、摩周湖の旅。

 この第1篇はスキーに関する記述が多い。時代的には大正3年頃から昭和4年頃までの、スキーを発見し夢中になってのめり込み、ジャンプを発見、同じように熱中する過程が生き生きと描かれている。草創期の話なので、信じがたいような苦労話が次々と出てくる。昭和4年に雪を求めて立山に行き、唐突に祖父母の<行脚>の話が出てきて、そこから長い長い国後島への放浪と移住の話が始まる。身の置き所がないような彷徨の青春の日々である。
 自作の年譜を見ると、父母の死や最初の妻との間に長男秀雄の誕生と離婚、そして再婚、1年半を越えるジャワ滞在など、猪谷の暮らしには複雑な起伏があったことと思われるが多くを語ろうとはしていない。家庭的に苦労の多かった人かもしれない。学校生活についてもほとんど口を閉ざしている。語ろうとしないことを詮索する趣味は私にはない。語ろうとしないことの中には、おそらく本当の猪谷はいないのだろう。
 愉快なエピソードには事欠かないが、筏を自作して摩周湖に浮かぶ島に渡って嵐に遭遇、危うく遭難しそうになりながら岸に戻ってくる話がいかにも猪谷らしい。この挿話を含めて、相当の無茶をする話が多く、よくぞ致命的な事故にも遭わず無事に切り抜けて来られたものである。

[第2篇千島時代]
1 千島へ渡る
2 古丹消へ移住する
3 畑を作る
4 島の魚
5 鼠の話
6 二年目の冬
7 靴下の表
8 島の思い出
9 老漁夫の死
10 小屋の火事
11 滝の下の小屋
12 膝関節の半脱臼
13 千島を去る

 対応する年譜は次の通り。

昭和04/08(39) 千島へ渡る。
  04/11(39) 古丹消(コタンケシ)へ小屋を作る。
  05/06(40) 豊原行。
  06/05(41) 千春生まる。
  06/10(41) セルロイドスキーの試験に白馬へ登る。
  08/07(43) 千夏生まる。
  08/09(43) 佐渡行。
  09/04(43) 小屋の火事。
  09/07(44) 滝の下の小屋を作る。
  09/12(44) 丸山と膝の奇蹟。
  10/09(45) 千島を去る。

 この第2篇では、島の人々にスキーを教え共に楽しむ話も出てくるが、自力で小屋を造り、創意工夫をこらして独自のスタイルをもった生活と、島の自然と人々の暮らしをめぐる記述が、生彩をもって生き生きと語られる。それにしてもいくら気に入ったとは言え、旅先で小屋(家)まで作って6年も住み着いてしまうとは只者ではない。
 自然豊かな厳寒の地で、厳しい環境をものともせず、むしろ水を得た魚のように、楽しげに暮らす記述から文明や都会から遠く離れた所に身を置こうとする野生のスタイルが、猪谷本来のものであることが良く分かる。自給自足に近い原初的な人間の暮しがそこにある。島民との人情溢れる触れ合いが猪谷の人間性をよく表している。厳しい寒さに立ち向かう猪谷の姿勢は、合理的な精神に満ちており、これも見逃せない彼の本質の一つ。
 「小屋の火事」のアクシデントから立ち直る猪谷の姿は、何とも逞しく印象的。 

[第3篇再び赤城山時代]
1 再び赤城山
2 湖に親しむ
3 万座、白馬
4 山歩きとゾロ
5 闇夜の山下り
6 雷
7 ヒマラヤ入りの計画
8 最後の冬
9 千春入学
11 湖で溺れた人

 対応する年譜は次の通り。

昭和10/10(45) 再び赤城山に小屋を作る。
  10/10(45) 千夏の死。
  11/01(45) 以降スキー場回り。鹿沢、熊の湯、発哺、霧ガ峰、菅平、乗鞍、立山、谷川など。
  11/07(46) 赤城山へ友人関口氏の小屋を作る。
  11/08(46) スカール、ファルトの練習。
  11/12(46) スキー撮影行。鹿沢、万座、伊吹、白馬、立山など。
  13/02(46) 湯沢のスキー競技会。
  13/03(46) 乗鞍、立山と引越し先をさがす。
  13/04(46) 千春小学校へ人学。

 子どもの教育の問題をきっかけに赤城山に戻った時代、次男の突然の死が何とも悲しい。ここでも残っていた自分の土地に小屋を建て、自給自足に近い生活をしながら、長男千春の成長を見守り、自然にどっぷりとつかった生活を始める。
 文章に脂がのってきて「闇夜の山下り」「雷」などの文章は、この本全体の中でももっとも生彩に富んだ私の大好きな部分である、何度読み返しても楽しい。傑作である。
 猪谷の生き方には、常識に囚われないというか、誰かが作ってくれた道を辿らないで、自分が面白いと思ったことに徹底的にのめり込み、自然を相手にきわめて合理的な思考を働かせて、問題を解決しようとする姿勢に貫かれている。かつて高田宏が評伝で<合理主義的自然人>と評したのは、的を射た表現である。
 「ヒマラヤ入りの計画」と言う題名の章の中に、「ヒマラヤの着物」と言う奇妙な見出しのついた文章がある。私はこの文章を読んで何度も吹き出した。こういうことを真面目に考える人物に悪い人はいない。実現しなかったアイディアだが、著者の発想法が分かるので、少し長いがそっくり引用しよう。

 しかし、私の何より興昧を持って試作してみるつもりで心血を注いだのは、テントとシュラフザックを兼ねた登山服だった。それは奇想天外で、したがってまた夢のような考案で、どうも誰に話しても、真面目に相手にはされそうもない代物なのだが、万が一にも役に立つものが出来たとしたら、とても素晴らしいと思ったので一生懸命案を練ってみた。初めは雲を掴むような問題なので往生したが、それでも長いこと、ああか、こうかといろいろに考えたあげく、どうやら朧気ながら頭の中ヘその形が浮かんできた。そこで或る運動具屋へ行って相談してみたところが、面白いから、ともかくも拵えてみてもいいということになって、いよいよ第一回の試作に取り掛かろうとして準備を進めているうちに、支那事変の勃発を見たので、それどころの騒ぎではなくなってしまった。もう今からでは、いずれにしても望みはないと思うが、ただ当時を回想する記念の意味で、その考案の外郭だけでも書き残しておいてみたいと思う。
 その登山服の目的は、最後のキャンプから頂上をめざす時のもので、それには、たとえその服を着るために半日や一日の時問はかかってもいいから、一度着たらその中で十日か半月くらいはテントも何もなしで、そのまま雪の上で生活の出来るような性能のあるものでなければならないと思った。
 最初に考えた上側の着物―ズボンも一緒に継っているのだが、以下単に上着と呼ぶことにする―の形は途方もなく胴体の大きい潜水服のようなものだった。外観は、外側にある数本のバンドを全部締めてしまうと、ようやく人間の形らしくなるというようなものになりそうに思われた。だからそれはきっと、登山服などという感じではなく、化物みたいなものになったかも知れない。そしてその上部のバンドニつほどを緩めると、上着の中の腹の前にテーブルが拡がり、胸にある窓の明りで、食事を始め、図面を見るとか、書きものをするとか、そのほか一切の仕事が出来るというような構造で、全部のバンドを緩めてしまうと、着物の中で下着の着更えから、靴下の穿き更えまで何でも出来るようにするつもりだった。山へ登って行けば、どうせ暑かったり寒かったりするに違いないのだから、上着の中でつねに下着の着脱が楽に行なえる必要があると思う。
 着物の種類はだいたい二種で、つまりテントとシュラフザックを兼ねたような上着と、順に大きさの違うラクダのメリヤスシャツとズボン下のような地質の、もう少し特殊な形の着物の幾組かが、下着ともなり中着ともなり、そのほかにも毛糸のチョッキのようなものはあるにしても、普通の服らしい形のものや、ラシャ類の生地で作られたものは不要になりそうに思われた。
 上着の生地は、グレンフェルのようなものを重ねて使うか、またはもっと厚いものにするか何れにしても完全防水の布で作り、その厚さは場所によって同じではなく、例えば襲になる間は薄く、外股、腰部、脇腹、背中、肩あたりには、それぞれの形で、氷や雪の上へそのまま寝ても冷たさの通さないような厚くって堅く、そして軽い、例えばセロテックスのような質のものの入っている部分を拵えておくことにする。
 持物は、上着の外へも小さいリュックを背負うが、上着の内側には沢山なポケットを付けて、下着類の大部分と相当量の食糧その他必要品を入れておけるようにする。
 それから、温度の高い時には上着の窓をあけて、着物の中へ直接外の空気も入れられるようにし、ごく低温の時はすっかり窓を閉め切ってしまって、濾過した空気を呼吸することが出来るように工夫する。飲料水は雪または氷を順序を経て着物の中へ採り入れて作り、低温度の場合の両便はいずれも着物の中で不都合なく用が足せるように工夫する。なお着物の中がモのまま暗室にもなり、必要があればフィルムの操作くらい出来るようにしておく。それから出来得れば、目の前に曇らないように工夫された非常に優秀なガラスの小窓を付けておいて、必要な揚合には着物の中からの撮影も出来るようにする。
 それからアイゼンは足へ穿くもののほか、膝や脛用のものも用意して、条件によっては立って歩くよりも、登りは這って進むことの方を常態とすることが出来るようにしておく。なおそれには不断から坂道を這って登る身体の方の練習もしておく。腕は中途からでも分けて少なくも左右に二本ずつは作り、立って歩く時の手と這う時の手を別にする。なお必要な時は、中から下着だけの本当の手を出して仕事することが出来るようにもする。
 ざっとこんなものだが、もしも出来たらさぞ面白いことだろうと思う。それはどうせ甚だしいスローモーションにはなるが、でもテントヘ帰らなければならないという心配がないのだから、迂回した方がいい所はいくらでも呑気に遠回りをする。そして夜昼の制限もないのだから、広い尾根筋や月のいい晩などは、一行の身体の調子さえよければ「もう少し這おうじやないか」というような相談も出来るし、いよいよ疲れたら、たいがいの所へはそのまま、どろりと横になって寝ることも出来る。それに場合によっては匍匐用の手の爪を岩の割れ目に引っかけて、南洋の編幅が岩穴の天井からぶら下がって寝るような真似も出来ないとも限らない。
 ともかくも、五回、六回と試作を重ねていって、だんだん自信がついてきたら、乗鞍か立山の頂上辺の岩蔭へ、真冬のなるべくひどい吹雪の晩、泊りがけに登っては試験してみたいと思って楽しみにしていたのだったが、せめてもう二、三年前から試作にかかっておけばよかったのに、惜しいことをしたと、今でも考え出すと残念な気がする。

 これが実現していたら、猪谷の評価は今とは違っていたかもしれない。私は大真面目にこんな途方もないアイディアをひねり出す猪谷が好きである。登山途中で足を滑らせて、転がりだして止まらなくなった猪谷を想像して、私は何度も不謹慎にも笑ってしまった(失礼)。

[第4篇乗鞍時代]
1 番所へ移る
2 野麦ヘ
3 小屋を作る
4 第二の冬
5 乗鞍とスキー
6 ゲレンデの薇払い
7 石割り
8 大町の大会
9 乗鞍のスキー春夏秋冬
10 新コース
11 頂上のゲレンデ化
12 盗人君を泊める
13 日光の大会
14 最後のシーズン
15 子供の躾
16 私と鏡
17 スキーに生きる
18 スキー研究室

 対応する年譜は次の通り。

昭和13/12(47) 番所へ越す。
  14/03(48) 初めて鈴蘭の競技会に出る。
  14/06(49) 野麦行。
  14/07(49) 番所へ小屋を作る。
  15/06(50) 野麦、岐阜行。
  15/07(50) 人夫を集めてゲレンデの手入れをする。
  16/01(50) 大町行。
  16/04(50) 新コースを登り、初めて本谷を下る。
  18/01(52) 日光行。
  18/03(52) 湯沢、赤倉、北海道行。
  18/08(53) 土樽へ越す。
  18/11(53) 浅虫へ越す。
  18/12(53) 「雪に生きる」出版。
  19/10(54) 「赤城の四季」出版。

 子どもの教育とよりよいスキーの環境を求めて、猪谷は昭和13年に乗鞍の番所に引っ越す。ここでも気に入った土地に自分で考案し設計した小屋を建てて、スキー場の管理人のような立場で、スキーとスキー場造りの生活が始まる。
 生き方としては、スキー指導者としてもあり方に比重が移り、スキー選手として息子を育てながら、よりよい乗鞍スキー場開発に力を注いでゆく。スキーの研究会にも加わり、乗鞍における猪谷の存在が、スキー指導者として重み増してゆく。
 「石割り」の話と「小屋を作る」話が、猪谷のものの考え方をよく表していて、興味深い。職人的な器用さに加えて、創意工夫と発見の喜びに満ちた<作る人>だったことが良く分かる。
 「盗人君を泊める」はあまり気持ちのいい話ではないが、猪谷の純朴な人柄と世間との接し方がわかり、納得の文章。

[第5篇山小屋その他]
1 私の山小屋について
2 小屋二つ
3 薪切り台
4 着物の順序
5 靴下の表の説明

 この篇はスキーを離れたエッセイだが、合理主義的な生活者としての猪谷の考え方が、良く分かる興味深い文章が並んでいる。完全に自立した生活者だったことが、彼の工夫の端々から感じられる。
 要点だけを抜き書きしたような気がして、本書の魅力をなかなか伝え切れない。書店では見つからないが、古書店や図書館なら見つかるので、山や自然やスキーが好きな人ならきっと気に入ってもらえるはず、是非手に取ってみてほしい。人生を見直すきっかけになるかもしれません。


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