武蔵野日和下駄

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 猪谷六合雄の生涯と文章(その4)『赤城画帖』 高村光太郎著, 猪谷六合雄著, 西山勇太郎編集 (発行龍星閣1956/10/20)

  猪谷六合雄の名前が解説者として出てくるこの本も、猪谷に関心のある人なら気になる1冊であろう。高村光太郎東京美術学校に在学中の20代前後の頃、赤城にスケッチ旅行に来て、現地の少女と交わした相聞歌と、その時の素描を合わせて1冊にまとめたもの。素描と相聞歌の両方について、猪谷六合雄が丁寧な解説をつけている。赤城山周辺の地理に詳しい猪谷の解説が、何となく不鮮明な光太郎のスケッチに花を添えた感じに仕上がっている。この本について、気がついたことをあげておこう。 (この本は、右の画像のような箱入りで、中の本は手触りのいい緑の布で装丁してあり、高級な感じに仕上がっている)
 ①光太郎は56年4月2日に永眠しており、この本は、同じ年の10月20日に出版されている。内容を見ると、素描については、光太郎が健在なら、おそらく世間に公表するに値する作品とは認めなかったのではないかと思われるほど力が感じられない習作の域を出ないスケッチである。

 ②もう一つは、後半に付けられた短歌である。「毒うつぎ」と「赤城山の歌」の両方の短歌連作を載録している。猪谷は解説で当時の赤城周辺では、歌を作るような女性は2人しか思い当たらず、自分の姉か従姉妹しかいなかった。姉は20歳を過ぎていて少女とは言えないので、年齢的に見て従姉妹の方ではないかと推測している。一方、2006年発行の佐藤浩美氏の「光太郎と赤城-その若き日の哀歓」では、詳細な現地取材に基づいて、相聞歌の相手を猪谷の姉、猪谷ちよと断定している。気になるのは、この二人の推測のズレではなくて、猪谷が生まれ育った環境についてである。
 長女ちよが歌を作るような文化的な家庭環境の三男として生まれ育ったことが、六合雄に与えた影響について考える参考になる。長男と次男が幼くして亡くなり、ただ一人の跡継ぎにして末っ子という兄弟位階は、六合雄の人間形成に何らかの影を落としことは間違いあるまい。猪谷は、生まれ育った家についてはあまり詳しいことは書き残していないが、時代と世間を遙かに超越した一種の巨人のような人物だっただけに、この本は、いろいろな想像をかき立ててくれる。
 本書には目次はないが、次のような内容になっている。

赤城山逍遙スケッチ
短歌1―赤城相聞歌「毒うつぎ」名で<明星>に発表
猪谷六合雄の解説
短歌2―「赤城山の歌」で<明星>に発表


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