武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 猪谷六合雄の生涯と文章(その5)『雪に生きた80年』 猪谷六合雄著 (発行実業之日本社1972/12/10)

 この本は、戦前1943年発行の名著「雪に生きる」の戦後版とでも言うべき続編、幼い頃の生い立ちの記を含め、戦中戦後の混乱期の回想から始まり、30年間近い戦後の猪谷の文章を、ほぼ書かれた順にまとめた猪谷六合雄作品集となっている。「雪に生きる」は、1940年頃の執筆時期に視座を固定した、長期間の回想録だったのに対して、本書はスキー雑誌などの求めで、その時々に現在進行形に近い短期間の様子を綴った文章を寄せ集めたもの。
 「雪に生きる」が持っていた見たこともないような驚くべき人に出会ったという印象は薄らぐが、猪谷流とでも言うしかないやりたいことに(スキー)どこまでも熱中する自由奔放な生き方が、時代の流れの中で受け入れられ、評価され、位置づけられて、戦後日本の社会と和解してゆく過程が克明に記録されている。時代が猪谷の生き方にやっと追いついて来たと言うことか。
 スキーが冬の大衆的なレジャーとして、観光資本のビジネスに組み込まれてゆくに従って、猪谷という人間の価値が評価される時代がやってくる。冬季オリンピックと長男千春氏の活躍、アメリカ金融資本家スター氏(AIUの創設者)との出会い、皇室関係の専属スキー指導員の仕事などなど、戦後社会の中で猪谷が認められていった過程が、本書からつぶさに読み取れる。猪谷は次第に時の人になってゆく。
 だが、私は、不遇な時代の動物的なまでに懸命に生きる、野性的な猪谷六合雄のほうにより魅力を感じる。誰に頼る当てもなく、自分の体力と才覚だけを支えに生きていた猪谷の方が、文章もその内容もより輝いて生き生きしているような気がしてならない。本書で言えば、第二部1篇の要目時代の頃までの苦難に晒されていた頃の猪谷の文章の面白さは、ちょっと文句の付けようがない。「蛇と戦う」の小見出しがついている一節など、手に汗握るほど生き生きしていて素晴らしい。苦手な蛇に悪戦苦闘する猪谷一家の奮闘ぶりは、蛇の嫌いな人なら気持ちが悪くなるかもしれない。

 少し長くなるが青森の要目という山間部で暮らし始めた頃の文章を引用してみよう。非常に長い段落から、悪戦苦闘する猪谷の楽しげな息遣いが伝わって来る。飛ばさないで是非文の流れを辿ってみてほしい。生きた文章とは、こういう文のことを言うのだ。 (左の画像は、要目に借りて住んだ小屋の周辺、後ろに見える滝の脇から温泉が湧いていた、奥の方に出っ張って見える建物が大きな浴室になっていた、六合雄撮影)

 小屋は崖下の小川に面して建てられていた。橋を渡り、入ロの鍵をあけてはいってみると、かなりに荒れてはいるが、そのわりには新しい感じがした。大きさは母屋が二十坪余りでそのほかに十二坪ほどのお風呂場がついていた。その中に四尺に六尺ほどの湯槽が二つあったが、樋がいたんでいて中は空だった。調べてみると六、七メートルほど離れた裏の崖下の石垣から三ヵ所ほど温泉が流れ出していた。手を入れてみるといずれも五十度前後の温度らしい。私たちは荷物を広げると急に活気づいて働き出した。むろん何もかも足りないだらけだが、すべてが新鮮で何を見てもおもしろい。小屋は私たちに手を加えられることを待ってでもいたかのようだ。まず戸をいっぱいにあけ開いて掃除をする。畳を敷く、窓をなおす、お勝手を整理する。そしてなによりも温泉なおした。朽ちて傷んでいる樋を継合せて苦心して湯を引く。しかしこれらの仕事は私にとっては、まさに得意の壇上だ。たちまち音を立てて二つの湯槽の中へ温泉が流れこむ。湯気が上がって窓ガラスが曇る。それから裸になって浴場の大掃除だ。古いクモの巣を払って羽目板を拭いて、落葉を掃き集めて流し場を洗って、大車輪の活躍だ。見る見るうちに風呂場の面目は一新する。むろんごく粗末な建物ではあるが、湯は透明で泉質は素晴らしくいい。むずかしいことはわからないが、アルカリ性であることはすぐ見当がつく。はいると身体中ヘシャボンを塗った時のように肌がつるつるする。出てからもつるつるでは困ると思ったら、拭いてしまえばさらっとして至極気持がいい。ためしにシャボンを溶かしてみると、ほんのちょっとで泡がいっぱいになる。あとで知ったのだが白い洗濯ものでもシャボンなしでかなりよく落ちるし、ひげを剃ったあとでもすべすべしていてクリームもメンソレータムもいらない。このころの世の中にはまったくもってお誂え向きだ。それから飲んでみてもたいして味もないからお勝手にも使える。後でためしに、それで現像液をつくってみたら、フィルムにも印画紙にもさしつかえなかった。

 アイディアを次々と行動に移し、身の回りを六合雄のスタイルに組み替えてゆく様子が、まるでドキュメンタリー映画を見ているように目に浮かぶ、行動する人の文体だ。試してみて判断して次の行動に移るリズムが何とも言えない。

 何にきくかよくわからなかったが、土地の人たちはだれもみんな口をそろえてよくきく湯だといっていた。そして由来をきくと昔、アイヌが霊泉として珍重していたものだったという。それが長い間理もれていたのを前年ある人が目をつけてここへ温泉宿を建ててみた。そして何年か営業していたが、あまりに不便すぎて客がなく、したがって商売にならないので、そこが官地だったものだからそのまま営林署へ引き渡してやめてしまった。その後、家が広すぎるというので営林署で改造して母家だけ小さくしたのだという。それで風呂場だけ度はずれて大きいわけもわかった。それからは営林署でもあまり使い道がなく、年に一度か二度、山まわりの役人が来て泊まるくらいだといっていた。それではまるで私たちのために建てておいてもらったようなものだが、なんにしても広い男湯と女湯を私たちが一つずつ独占しているのは当時の世の中としては、湯に関するかぎり、少々もったいなすぎるような気もした。
 その日の午後はまた二庄内まで下りて行って、ふとんと着物と食糧などを背負い上げてきた。そしてここでも、当分の間は辛うじて山のテント住まいのような生活を続けながら、毎日毎目二度か三度ずつ二人して二庄内がよいをした。雪解けのぬかるみの道で埋まったり、滑ったりしながら重い荷物を背負い上げてくるのはなかなか楽な仕事ではなかったが、早く運びたいので月夜に出かけたこともあった。これも一つには親切な雑貨屋の迷惑を少なくしたいためでもあった。しかしまた山の中のありがたさに、べつに探して歩かなくも二庄内の往復の途中で、山独活や蕗をはじめタラの芽などのおいしい山菜が、自分たちの食べるほどは不自由なしに集められた。それに荷物をあけるたびに新しい食物や道具が出てきたり、重い蓄音機を背負い上げた晩は暗い石油ランプの下で久しぶりにシンホニーなどをきいていると、それが前の谷川のせせらぎの音と調和して、現在の時局も忘れるくらい楽しい気がするのだった。

 長い期間スキーが出来るように青森まで雪を求めて、彷徨っていった先でのこの楽しげな暮らしぶりはどうだろう。人が住むのを止めた所で、工夫をこらして生活への道を切り開くこの逞しさ。この後に続く猪谷の奇妙なアイディアを是非楽しんで貰いたい。至る所で発揮される著者の器用な工夫が何とも楽しい。戦争中でもこういう風にして生活を楽しんでいた人はそんなに多くはいなかっただろう。暗いランプの下で聴いた交響曲とは、どんな曲だったのだろうか。まさに至上の音楽だったに違いない。

 それからファルトボートを背負い上げてきて、途中の池の端で組立て、小屋の近くまで漕いできた時もうれしかった。この池は長さ1キロ半ぐらいもあったが、まだ一度も舟を浮かべたことはなかったとかで、通りがかりの土地の人たちも珍しがって目をみはっていた。
 やがて引越荷物も半分ほど持ち上げると、日常の生話にはだいたい不自由を感じないようになったので、こんどは村の人に畑を借りて蒔きつけをしたり、近所の荒地を開墾したりしたが、そのあいだには山へ蕗やワラビを採りに行って乾燥して冬の用意にもと思ってたくわえたりして、毎日忙しく働いていた。それで、もう夜になるとすっかりくたびれてしまって、夕食をすませて湯にはいると中で居眠りをしたりする。電灯のないのを幸い、早く寝床へもぐりこんでしまう。
 ここの日常は本当に日が暮れれば寝て、夜が明ければ起きる原始的な生活だった。それにほとんど人の来ない家だったから、ずいぶんのんきな生活でもあった。朝起きると広い風呂場の脱衣棚の上の段へ寝巻をほうり上げたまま、湯から出ると昨日から置きっぱなしの下の棚の仕事着を着る。むろん夜はその反対だが、これはなかなか工合がよかった。だが石油も乏しいしローソクもないし、もう勝手をよく知ってるので、夜はいつも暗闇で湯にはいることにしていた。

 次に出てくる前後ろのないズボンや服を自作するという、日常生活に密着した合理主義はどうだろう。こういうことを何の拘りもなくやってしまう猪谷六合雄という人間が大好きである。

 それで、もうなれているので、はいるのにも出るのにもべつに不自由は感じないのだが、さて寝巻を着ようとするとズボンの後ろ前がわからない。やっと手さぐりでそれを確かめてはいて、上衣の番になるとまた前後がわからない。いっそ面倒だから、後ろ前なしのズボンをこしらえてみようというので、有合せの布を探し出して、相談しながら怪しげな裁断をして縫い上げてみた。
 ところがそれが思いのほか成功して、寝巻のズボンとしてはいささかの不都合も感じない。そこでこれなら昼の仕事着にもなりはしないかというので、ズボン地の黒いサージがあったことを思い出して、さっそく二庄内へ取りに行き、それで頑丈に縫ってみた。むろんスマートな形であるはずはないが、どうやら役には立つ。そこで二人とも畑仕事や荷物遅びには、もっぱらこの型のものを使うことにした。これは裁断が簡単で縫うのも早く、修理がしやすく着脱が便利で洗濯にも都合がいい。そのうえ、ズポンやモンペのいたむのはだいたい膝頭のところとお尻の辺りだが、この型はいつのまにか前になったり後ろにまわったりするから、何十パーセントか長持するわけだ。ともかくもこれで暗闇でズボンの後ろ前をさがす手数がなくなって大いに助かったが、ついでに裏表もなくしたらさらにいいだろうというので、すこし縫い方をかえてみたら、山小屋の寝巻ぐらいにはさしつかえない程度にはなった。
 それからつぎは上衣の番だが、これは首があるから無理かと思ったが、やってみたら案ずるより生むがやすしで、これもどうやら無事に出来上がった。さっそく使ってみたら寝巻に不自由がないばかりでなく、下着のシャツとしても役だつので私たちは以来、寝巻のほとんど全部と、仕事着の大半をその型のものにしていた。しまいには布地をえらび裁断をくふうしてつくり、青森あたりヘ行く時まで上下ともこれを着ていたこともあった。ともかくも夜温泉から出てきた暗闇で、棚から下ろしてただ着たりはいたりすればすむ後ろ前なし裏表なしの寝巻ははなはだ快適で、当時は着るたびにちょっと得意な気持にさえなるのだった。
(一段落省略)
 でもこの小屋はお天気のいい日もよかったが、雨の日もまたなかなか捨てがたい趣きがあった。むろん降れば降るで家の中の仕事はいくらでもある。時には縫いものや編物をしたり、食糧をこしらえたり、大工仕事や書きもの等々とても忙しい。しかし薄着でもしていると寒くなるから何度でも温泉へ飛びこむ。首までつかってのびのびと足を投げ出して、ガラス越しに崖の緑を見上げるのも楽しいことの一つだった。充分暖まって湯上がりの裸のままで前の廊下へ出てみると、軒先の川岸で河鹿が鳴いている。雨に濡れて光っている水ぎわの丸い大きい石の上のそこここに、二匹三匹と蛙がみんな向こうを向いてもっともらしくしゃがみこんでいる。まるで素朴な墨絵、とくに俳画のような趣きがあった。私たちのような無風流な人間でなかったら何か名句が生れ出たに違いなかったと思う。

 戦争中の猪谷の暮らしが手に取るように見えて来るではないか。奇妙なズボンと服を作る発想のなんと自由で大らかなこと、暗闇の中の温泉の話など、そんな良い思いをしていたのかと羨ましくなるほど、だが実際は厳しい放浪生活が現実だったことを忘れてはなるまい。猪谷一家の生活が不思議な輝きを発するのはこのあたりまでとなる。戦後になって三度赤城に戻り山小屋を建て住み、志賀高原に移り、徐々にスキー場の管理とスキーの指導者の地位を確立してくると、この輝きは光が薄らいでしまうのである。
 第5篇には、車に目覚め車を改造し、車上生活に取り組む猪谷が出てくる。いくつもの山小屋を独力で造ってきたノウハウをキャンピングカーに適応した応用問題だったのだろう。それはそれで面白いし、猪谷らしいとは思うが、闇の中を手探りして進むような緊迫感は薄らいでしまった。戦後日本のモータリーゼーションが世の中を覆い尽くした時代における猪谷なりの社会的適応のスタイルだったのかもしれない。
 高度成長期を通過した日本には、すでに猪谷が本領を発揮するような未開の荒野は残ってはいない。上手に適応を果たしたので、猪谷には特段の嘆きはなかったようだが、戦前の輝きに満ちた眩しいほど野性的で自由な猪谷を知る者にとっては何だか少し淋しい気がしないでもない。明治が生んだ野生の快男児は、こうして着実に時代の中に自らの居場所を獲得していったのである。
 最後に、本書の目次を引用しておこう。

自序
第一部 思いだすことなど
思い出
初期の放浪生活
動物的本能
第二部 「雪に生きる」その後
第一篇 戦中戦後の生活
番所から青森へ
要目時代
敗戦前後
第二篇 志賀高原時代
三度目の赤城山時代
志賀高原へ移る
スキー合宿
第三篇 アメジカ・ヨーロッパ行脚
スター氏との出合い
アメリカスキー行脚
アメリカ漫走九千キロ
千春の卒業式と最初のヨーロッパ行き
第四篇 スキー技術と指導法
スキー技術の問題点
初心者の指導
宮様方のスキー
スキー覚書き
第五篇 車の生活
自動車学校へ行く
車に住む
九州へ
北海道行き
イタリー行き
車断片
蚊をとって事故を起こす
第三部 私の生き方と老人問題
物の見方、考え方
人生と幸福
人間の生甲斐とは
年譜

 猪谷六合雄の書いたものをずっと辿ってくると、「雪に生きる」1巻が放つ輝きは、大正から昭和初期にかけての時代の中で、明治生まれの類い希な個性が放った、1回限りの特権的な生の燃焼だったと言うことが分かってくる。<時代と寝る>という言い方があるが、猪谷六合雄も彼なりのやり方で、見事に時代と寝たのだと言っていいだろう。「雪に生きる」は、生き方としても文章化された作品としても猪谷六合雄の最高傑作である、だがあの輝きは二度と戻ってこない。
 最後に、「雪に生きる」出版以降の著者の年譜を引用しておこう。70歳をすぎて自動車免許をとったことからも分かるように、何時までも続く途轍もなく元気な活動、晩年は素晴らしいスーパーお爺さんぶりを発揮していた。82歳して本書を出版したことからして只者ではなかった。
 年譜をみても分かるように、戦前までの前半生を評価するか、戦後の名をなした以降の後半生を評価するか、人によって意見が分かれることだろう。

昭和18年12月(53)「雪に生きる」出版。
  19年10月(54)「赤城の四季」出版。
  20年 4月(54)要目へ越す。
  20年 8月(55)大湊、袰月行。
  21年 1月(55)三度赤城山へ。
  21年 2月(55)スラロームバーンの開拓。
  22年 2月(56)競技行脚、水上、草津、日光、野沢、北海道。
  23年 2月(57)競技。水上、長岡、草津、野沢、細野、大山など。
  23年10月(57)志賀高原へ越す。
  23年12月(57)「私達のスキー」出版。
  24年 2月(57)野沢、札幌、日光、草津、米沢、乗鞍、涸沢など。
  25年 1月(58)皇太子殿下スキーど練習、熊の湯行。
  26年 1月(59)殿下のスキー、鹿沢、蔵王行。
  26年11月(60)スター氏に逢う。
  27年 2月(61)殿下のスキー、尾瀬行。
  27年 2月(61)千春オスロ・オリンピック出場。
  27年12月(62)「私達のスキーアルバム」出版。
  28年 2月(63)千春とアメリカヘ行く。
  28年 5月(63)千春を残して日本へ帰る。
  28年11月(63)スキー科学研究会発足。
  29年 2月(63)スキーモルモットテスト始め。
  30年 3月(64)リフト研究会発足。
  30年 7月(65)夏スキー、鳥海山尾瀬など。
  31年 2月(66)千春コルチナ・オリムピック参加、銀メダル受賞。
  31年 4月(66)尾願、八甲田など。
  32年 5月(67)妻とアメリカ、ヨーロッパヘ。
  32年12月(67)渡辺氏初心者の指導法研究に参加、八甲田、洞沢など。
  33年 2月(67)千春バドガスタインFISに出場。
  33年12月(68)「スキーはパラレルから」出版。
  34年 4月(68)藪原、八甲田、西吾妻、金沢、涸沢など。
  35年 2月(69)千春スコーバレー・オリンピック出場。
  35年 3月(69)六呂師、尾瀬、洞沢、立山など。
  35年 8月(70)自動車学校へはいる。
  36年 1月(70)高峰でスキー学校を開く。
  36年 3月(70)リングバーのテスト。
  36年10月(71)自動車運転免許をとる。
  37年 7月(72)石の湯、尾願、針の木、洞沢など。
  38年 1月(72)石の湯でスキー学校。
  38年 4月(72)先生たちを連れて九州へ。
  38年 7月(73)エルフを買い、トラベルカー一号を作る。
  38年 8月(73)レルヒの息女、ホーリヤ氏に逢う。
  39年 1月(73)菅平でスキー学校、鳥海、乗鞍。
  39年 9月(74)浪江で自動車事故。
  39年11月(74)フォルクスワーゲンを買いハウスカー二号を作る。
  40年 5月(75)北海迎、流葉、九州行。
  40年 8月(75)両腕の尺骨神経移動手術。
  41年 1月(75)車山でスキー学校。築場、針の本、北海道など。
  42年 1月(75)車山、戸隠でスキー学校。
  42年 2月(75)美智子妃殿下苗湯でスキーを始めらる。
  42年 5月(76)東京へ越す。
  42年12月(76)「初心者からのパラレルスキー」出版。
  43年 1月(76)大松山でスキー学校。
  43年 3月(76)浩宮様苗場でスキーを始めらる。
  43年 5月(78)新フォルクスワーゲンでハウスカー三号を作る。
  44年 1月(78)スキー学校を戸隠へ移す。
  44年 3月(78)殿下のスキーご一行蔵王へ。
  44年 8月(79)イタリー行。
  44年11月(79)飯豊山行。
  45年 1月(79)戸隠、中吾妻、ハ甲田、洞沢等。
  46年 3月(80)礼宮様苗場でスキーを始めら
  46年 5月(81)八甲田、十三湖行。
  46年 9月(81)蚊を取って事故を起す。
  47年 3月(81)浩宮様戸隠スキー学校へ入校される。
  47年 5月(82)駒ガ岳の春山にはいる。
  47年 6月(82)洞沢の夏スキー行。
  47年12月(82)「雪に生きた80年」を出版。
  55年  (90)トヨタ・コースターでハウスカー四号を作る。

  61年 1月10日 95歳にて永眠

 要目の小屋が現在どうなっているか調べてみた。集落はダム工事でなくなり、小屋のあたりは自然災害で見る影もない状態のよう、温泉マニアが調べてUPしてくれていて、やっと分かった。興味ある人は、下のURLをクリックしてみて。
http://www25.tok2.com/home/miyan/Mayu/2_Touhoku/02_Aomori/20201_Kaname/2_02_Kaname.htm