武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 10月第2週に手にした本(10/7〜10/13)

*台風26号が伊豆大島に大きな被害を残した。私が暮らす武蔵野台地には、川らしい川が少ない。昔から、水不足が悩みの種で農業には難しい土地だった。近くに田圃はひとつもなく、洪水にはほとんど縁がない。暗闇の中での、濁流や土砂崩れのいかに恐ろしいことであろう、亡くなられた方々のご冥福を祈りたい。

吉村昭著『私の引き出し』(文芸春秋1993/3)*六章に分類整理された著者の、比較的短いエッセイがぎっしり詰まっており、どれを読んでも渋くて仄暖かい著者の人柄が伝わってくる。あせって読まなくてもよかったのに、つい一気に読んでしまった。前半の<小説の周辺>と<歴史のはざまで>の2章が、吉村文学愛好者にとって嬉しい作品の裏話となっており、文庫の解説以上に参考になる。

サルトル平井啓之訳『方法の問題』(人文書院1962/7)*弁証法的理性批判序説と副題にあるように、著者絶頂期の社会参加理論の総論のあたる部分、多くの人々にとって社会主義が未来にかける虹であった時代のもの。読み返していると、空回りしている情熱がなんとも歯痒い。

石原慎太郎著『わが人生の時の時』(新潮文庫1993/2)*この著者が語る体験談も、その友人たちも、別世界に住む人々のような印象を受けた。たまたま吉村昭のエッセイを平行して読んでいたので、あまりの違いにクラクラした。共感の対極にあるような文体は相変わらず。