武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 新たな生活空間の構築(52)


ネムノキの話》

山荘の敷地には直径20センチほどのネムノキの切り株があり
萌芽更新した3本のネムノキが5メートルほどに育っている。
去年はその1本が申し訳程度に花をつけたが
今年は3本ともよく成長してしっかりと蕾をつけていた。
前橋の市街地で7月にはいって直ぐにネムノキが咲いているのを見たので
標高の高い山荘はいつごろ咲くかなと待っていたら、
一週間ほど遅れて7月の上旬頃から咲き始めた。


ネムノキの花には忘れられない思い出がある。
子どもの頃過ごした北陸の山村の近所の子どもたちの間では
ネムノキが3度目の花をつけたら川遊びをしても身体をこわさない、
と言う他では聞いたことのない不思議な伝承があったのである。


小学校への道の途中に何本かネムノキが自生していて
梅雨のころに淡いピンクの花が煙るように咲き出したのを見ると
夏が来たこと、もう直ぐ愉しい水遊びが出来ることに
気持ちがワクワクしてきて高揚してくるのだった。
ネムノキの花は最高気温が25度以上になると花開き
夕闇に淡くて品の良いかすかな香りを漂わせて虫たちを誘い
ピンクの絹糸のような可憐なオシベは数日で散ってしまう。
ネムの花をうっかり見過ごしたとしても
地面に落ちている薄赤いオシベが花が咲いたことを教えてくれる。


梅雨が終わる頃、咲いては落ち咲いては落ちしていたネムノキが
3度目の花を着けるころ気温は30度を越え空気はむしむしして
いつの間にか水遊びにもってこいの夏本番となっていた。
夏の夕方に花開くネムの花がいつ咲いたかは誰も知らないが
毎朝通る通学路のネムノキの花を見て
ある日から川遊びが解禁になったことを知り
10歳以下の少年たちの真夏の川の至福の時間が始まった。
10歳以下の子どもには農業の手伝いもなく
学校から帰れば遊ぶこと以外になにもない無垢の時間だけが待っていた。

1950年前後のこの国の小川には無数の生命が満ち溢れ
農薬と化学肥料に汚染されていない無垢の水が流れていた。
空き缶一つ、小瓶のかけら一つ落ちていない川底には
敏捷な命の影が無数に閃き、どんなに素足で駆け回っても
足を怪我した子は一人もいなかった。
ネムノキの花を見ると、自然が自然のままだった失われた時代を思い出す。