武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 蟻―ウェルベル・コレクション①(角川文庫)奇想天外な蟻の世界をめぐるホラーファンタジー小説

toumeioj32005-07-08

 私はもともと虫を踏んで楽しむような性格ではない。気づいたら出来るだけ踏まないように気をつけるほうだ。どんな昆虫も猛毒を持つものでなければ、普通にもつこともできる。だが、この本を読んでから、昆虫を見る目が少し変わったような気がする。とりわけ蟻の巣を見つけると、心が揺れるようになった。勿論、不用意に踏みつけたり絶対にするつもりはなくなった。こんなに具体的に行動面に影響される本も珍しい。
 それだけではない。この本は凄く面白い。物語は3本の筋立てで進んでいく。一つは生物学者だった伯父さんが遺産として残したパリ郊外の古びたアパートにやってきた家族とその家族の失踪事件に関わる人々。二つ目は死んだ生物学者エドモン・ウェルズが残した「相対的かつ絶対的知の百科事典」からの引用部分。辞典の引用がストーリーの片棒を担ぐなんておかしいと思われるかもしれませんが、この引用文の配置が絶妙、こんな手があったかと感心した手法。読んでみれば分かります。三つ目の筋が、ベル・オ・カンと呼ばれるアリ達の世界の動向。このありの世界の物語がこの小説のメインストーリー。
 古アパートにやってきた家族をみまう出来事は、ミステリー小説プラス冒険小説プラスオカルト小説。ジョナサンが立ち入り厳禁とされた地下室に入るところから人間の家族の物語は動き出す。地下室は予想外に深く、もぐりこんだ人々が次々に行方不明になるほど深くて広い。かつての新教徒たちの地下都市につながって、物語はさらに思いがけない方向に展開する。
 ほぼ同時に、蟻の世界でも冬眠から覚めたアリ達が行動を開始する。アリ達の行動は冒険あり、恋愛?あり、バイオレンスありで、非常に興味深い。ファーブルの国の想像力は途方もなく広がり深まってゆく。
 アリ達の物語に挟まるようにして、「相対的かつ絶対的知の百科事典」からの引用が、解説のような哲学的断章のような文章が奇妙なタイミングで出てくる。最初は何だか不思議な気がするが、読む進むうちにこの3本の筋の絡まりに慣れて気にならなくなる。
 やがて、この3本の筋が思いもかけないような形で一本に合わさり、話はSF小説風になってくる。奇想天外とはこのこと。
 蟻の世界の描写が、著者の一番力を入れているところで、ここが甘くなるとこのお話全体が崩れてしまうところだが、ここが一番読ませる。よほど蟻につい詳しくなければこうは書けないと思った。つい、蟻に感情移入してしまい、あせることがある。人間達には感情移入しないのに、蟻にはするりとはまってしまう。作者の手腕だろう。
 筋はこれ以上書かない方がいい。ともあれ、これは素晴らしく面白い冒険小説であり、オカルト小説であり、SF小説でもある。昆虫の世界に知性を仮定すると、こんなに面白いお話が出来るのだ。宇宙人ではなく地球内における種の壁を越えた知的未知との遭遇。この本は続きます。