武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 短歌の私的枠組みを突破し物語を仮構する試みか 

toumeioj32005-08-14

 新聞の広告の「こんな新しい短歌があったのか」などと面白そうなコピーに引かれて、読んでみた。文庫サイズの変形版の装丁にちょっとびっくり、中を開いて、1ページ1首の大胆なレイアウトにまたびっくり、字が大きいので読みやすく、30分程度で全部読み終わってしまった。
 面白かったかと聞かれれば、まあまあだね、と答えることになるだろう。珍しいのと話題性があるかもしれないので、どこが新しいのか、考えてみたことをまとめてみよう。心から推薦できる作品を書き始めるのは、何年か先になるような気がするので、それまで、著者の笹公人さんには継続して頑張ってもらいたい。
 さてこの『念力図鑑』なる歌集の新しさだが、題材と方法論の両面から考えてみた。
 まず、題材だが、著者は1975年生まれ、と言うことは、今は30歳、この年齢の人が受け入れてきた言葉とその言葉が飛び交った時代を反映して、とにかく、捕らえられている風俗が新しい。と言うか、今現在の世相を上手く反映している。少しオカルト風の表現があるが、著者が10代だった頃のオカルトブームが反映しているのか、しっくりと時代の子となりえている。青少年時代に取材した題材が生き生きしていて好感がもてた。
 次に、方法論の新しさ。短歌などの短詩形文学は、大雑把にまとめると「一人称」の文学としてまとめられると考えている。断りのない限り、短歌や俳句の主体は、一人称の私だと言っていい。行動するのも感じているのも思索しているのも一人称の私、その私を、どんな時代のどこに設定するか、そこが短詩形文学の方法論だと考えてきた。
 ところが、『念力図鑑』の短歌では、最初から主体が著者ではなく、設定された場所も現実ではなくなっている。ある主題のもとに集められ、順番に並べられ、必要があれば補充された、ストーリーを与えられた物語となっている。短歌の連作の手法をさらに意識的におしすすめた結果かもしれない。主題は関連事項からフィクションとして構築されたものへといっそう意識化されたものとなっている。これは方法論として新しいという気がした。
 目次を見ると内容分かる仕掛けになっているので、次に目次を示す。

 家族の肖像
 放課後のサイコキネシス
 転校生はガワン族
 続・生徒会長レイコ
 叙情する念力
 念力旅情
 火事と既視感
 テレポート少女
 最後の朝礼

 私は、「転校生はガワン族」や「続・生徒会長レイコ」などが、場面展開が鮮やかで注意力を引きつけるコマーシャルフィルムを見ているような気がして楽しかった。「最後の朝礼」の学校に対する皮肉っぽい捕らえ方も面白い。時々、切れのいいギャグマンガを読んでいるような感じを受けた。この方法は、ひどく才能を消耗させるような気がする。擦り切れないように著者に頑張り続けてもらいたい。