武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

  浜田明訳(講談社世界文学全集第78巻)インターネットの発展の恩恵をこうむることが多いが、とりわけ、欲しいと思っていた書籍を入手するのに絶大な威力を発揮してくれる。(画像はこの本の印象的な函カヴァーを少しトリミングしたもの)

toumeioj32005-09-25

 以前は、欲しい本や調べたいことがあると、まず大きな図書館に行って下調べをして、それから大きな新刊本屋か古書店街にでかけた。下調べに半日、書店での本探しに1日、足を棒のようにして探し回って、見つかれば運の良い時、空振りに終わることも多かった。人によっては、苦労して探し回るプロセスが大事だと言うが、私の実感ではほとんど無駄な時間でしかなかった。探し回って見つからず、諦めたままになった好奇心の対象のなんと多かったこと、骨折り損のくたびれ儲けとはよく言ったもの。インターネットの凄さが話題になると、中年以上の年齢の人たちから、いくつかのドラマチックな体験が必ず出てくる。
 今日、ご紹介する本もその一つ、20年以上手に入らず、ほとんど諦めていたのに、ある時インターネットで検索してみたら、1冊売りに出ているのを見つけ、歓び勇んで購入したもの。以前に図書館から借りて読み、自分のものにしたいと思っていたのにかなわなかった。この巻は、収録されている内容が凄い。20世紀前半のフランス文学の先鋭な営みを代表する文学史的に重要な作品を揃えている。アポリネールの「短編」、ツァラの「近似的人間」、ブルトンの「ナジャ」、アラゴンの「文体論」、エリュアールの「詩集」。現代フランス文学の源流となったダダイズムシュールレアリズムの代表作品を集めた面白い品揃え、借りて読んでいたのでは返却しなければならないので、ぜひとも自分の物にしておきたかった。
 とりわけ、ツァラの「近似的人間」は、この浜田明訳以外に全訳が長い間なく、別の訳を手にしてみても浜田訳ほどイメージが鮮明ではなかった。今のところ本書の浜田明訳が日本語訳のベストのような気がする。本書の解説の中で浜田さんは「この難解な長詩を日本語に訳するのは私には不可能だとさえ思っている」と謙遜され、「詩句の音韻上の効果についてはほとんど訳には出さなかった」と断っておられる。詩の翻訳については、使われる言葉が、言葉が持つ多様な機能を全部引き出して使用される表現方法である以上、困難を極めるであろうことは予想できる。音韻上の効果を断念したのがかえって良かったのではないか。
 しかも、ツァラルーマニア生まれのフランス語使い、その上、フランス語の既存の言語表現の意識的な破壊者、翻訳不可能でも仕方がないか、と思っていた。しかし、浜田明さんの日本語訳は、おそらくイメージと意味の側面に重点を置かれたのだと思うが、日本語表現として素晴らしく新鮮だった。
 テーマは、言わずもがなの<現代人の生の苦悩、不安、孤独感>、そして<戦争や闘争>、<愛やエロチシズム>、これらのテーマが何重にも幾重にも重なり錯綜して、長大なイメージのうねりとなって溢れ出てくる。構成は、全19章、2378行、浜田明さんは、この長編詩を評して「内面の旅」と言っている。<近似的人間>とは、「市民社会の中で自己のありかを求めて生き、しかも求め得ず、現実世界の巨大な機能にしたがって回転する日常性を拒みながらも、その日常性をなぞって生きなければならない人間のことである」。ツァラが求めていたものは、もともと既存の言語では表現不可能なものだったのだから、あまり何が書かれているか気にせずに、延々と続く詩語の流れを辿るのがいいのだろう。近似的人間とは、限りなく人間に近いが、人間本来のあり方から微妙にずれてしまっている、現代人のあり方のことと思えばいいだろう。これ以外訳しようがないほどいい日本語訳の題ではないか。
 次に、長編詩「近似的人間」の第1章を引用してみよう。この章では、何度も繰り返し出てくる鳴り響く鐘のフレーズがなんとも印象深い。

鐘は理由もなく鳴りそしてわれわれもまた
鐘よ理由もなく鳴れそしてわれわれもまた

 ヨーロッパを旅行していて、街中に鳴り響く教会の鐘の音を耳にすると、ツァラのこの詩句を必ず思い出した。鐘がなる理由を自分の中に見出せず、だからこそ、自分の中では理由のないままに内面の鐘を鳴らし続けるというなんとも悲痛なイメージ。この鐘の音がさらに抑圧の鎖の音に繋がってゆく。ツァラの詩句では、このように音響のイメージが絵画的イメージと重なり合うところが素晴らしい。思潮社発行の「トリスタンツァラの仕事Ⅱ詩編」は、現在も入手可能。この本には、6章を省いた13章が掲載されている。他の詩編の訳もとてもいいので、気に入ったら手にしてもらいたい。
 もう一つ、印象的なフレーズがある。音にまつわるイメージだが、ツァラがこの章で描き出す近似的人間の核心部分を象徴しているような気がする。日本語としても、とても分かりやすい部分なので引用してみよう。このあと、圧倒的なイメージが炸裂するのだが。

わたしは誰が語るかを語るものについて語る わたしは独り
わたしはひとつの小さなもの音にすぎないわたしはいくつかの音をわたしの内にもつ
それは十字路で凍てつき砕けそして
湿った歩道のうえにみずからの死とともに急ぎ去る人びとの足もとに
両腕をひろげる死のまわりに
太陽のしたでただひとり生きる時刻の文字盤のうえに投げすてられたもの音なのだ

 ここでもツァラが描き出す音のイメージは美しい。それにしても、この強烈な孤独感は痛々しい、そこからなおも起き上がり表現に向かおうとするイメージの何と感動的なこと、この後のイメージの展開をぜひ辿ってみて欲しい。これから先、長い引用になる。だが、その長さが、全体の1割程度に過ぎないのだ。完全に全部読むと、圧倒的な読後感がやってくる。打ちのめされ、鼓舞されて、しばらく動けなくなる。ぜひ、全編を読んでみて欲しい。
 私は、20年間探していて、やっと入手した。完全な形で再度、浜田明訳の「近似的人間」が出版されることを期待している。では、ほんのさわりだけ、どうぞ。

     I

日曜日 血のたぎりのうえにかぶさる重おもしい覆い
身をちぢめ自らの内面に沈みこみ
ふたたび見いだされた一週間の重み
鐘は理由もなく鳴りそしてわれわれもまた
鐘よ理由もなく鳴れそしてわれわれもまた
われわれは鐘とともにわれわれの内にうち鳴らす
鎖の音を楽しむだろう

われわれを鞭うつこの言語は何なのか われわれは光のなかで驚き飛びあがる
われわれの神経は時の手につかまれた鞭であり
疑惑は彩色のないただ一枚の翼をつけて訪れ
遊泳する苦い魚たちへの他の時代からの贈りものである
崩れた包みの皺だらけの紙のように
みずからを締めつけ圧迫しわれわれのなかで砕ける

     *

鐘は理由もなく鳴りそしてわれわれもまた
果実たちの眼は注意深くわれわれをみつめ
われわれのすべてのおこないは監視される 隠されたものは何もない
川の水は川床を充分に洗った
水は眼差しの優しい糸を運び眼差しは
酒場の壁の下隅をさまよい幾多の生を翫め
弱いものたちを誘惑し誘惑を繋ぎあわせ恍惚を汲みつくし
古い流れの移りかわりの跡を底まで循り
そして囚われの涙の泉を
日毎の息苦しさに屈従する泉を解き放した
陽がつくりだす明るい姿あるいは怯えがちな幻を
乾いた手でつかみとる眼差し
ボタン穴に差したままの朝の花のように締めつけられた
気づかわしげな微笑の富を投げかける眼差し
休息をあるいは悦楽を電気バイブレーションの感触を
驚愕を冒険を火を
確信をあるいは隷属を求める眼差し
秘かな暴風に沿って這いのぼり
街の舗石をすりへらし幾多の卑しさを施しもので償った眼差し
眼差しは水のリボンのまわりに締めつけられて続き
人間の塵埃と幻影とを流れに浮かべて運びつつ
海へとそそぐ

     *

川の水は川床を充分に洗い
光さえも滑かな波のうえをすべり
石のにぶい輝きとともに川底に沈む

     *

鐘は理由もなく鳴りそしてわれわれもまた
われわれはもろもろの気づかいを身につける
それはわれわれが朝ごとに身にまとい
夜が夢の手でぬがせる内面の衣服であり
役にたたぬ金属製の判じ絵でかざられそして
風景の循環する浴室で
殺戮と犠牲を準備した町で
眺望を一掃する海のちかくで
不安げな厳しさをもつ山のうえで
なげやりな苦悩に満ちた村で
浄化される気づかいなのだ
手は頭のうえに重く
鐘は理由もなく鳴りそしてわれわれもまた
われわれは幾多の出発とともに発ち幾多の到着とともに着き
到着とともに発ち理由もなくやや冷淡にやや厳しくそして苛酷に
他の人びとが発つときに着く
舌の音階のうえに味わいゆたかな歌をともなう
パン以上の糧であるパン
もろもろの色彩はみずからの重荷をおろしそして考える
そして考えあるいは叫びそしてとどまり
そして煙のように軽やかな果実でみずからを養い飛翔する
誰が考えるのか 言葉がその核のまわりに
われわれの名である夢のまわりに織りなす熱のことを

     *

鐘は理由もなく鳴りそしてわれわれもまた
われわれは公道の雑踏から逃れるために
フラスコに一杯の風景とひとつの病いとただひとつの
われわれが育むただひとつの病いである死とともに歩いていく
わたしはおのれのうちにその旋律をもっていることを知っているだがそれを恐れない
わたしは死を運んでいるそしてわたしが死ぬとすれば
その死は痩せた草の香りのように細く軽やかな
原因のない悲しみのない負債のない悔恨のない
何もない出発のように細く軽やかな眼に見えぬ腕で
わたしを運んでいくだろう
鐘は理由もなく鳴りそしてわれわれもまた
われわれを鎖につなぐ鎖の端をなぜ捜すのか
鐘よ理由もなく鳴れそしてわれわれもまた
われわれはわれわれの内に鳴らすであろう
砕けたガラスを展金にまじった銀貨を
深淵につづくかもしれぬ扉のまえで
笑いと嵐とになって砕け散る祝祭のかけらを
天空の墓石を極北の骨を砕く風車を
われわれの頭脳を天にはこび
われわれの筋肉に溶解した鉛の夜を吐きかけるあの幾多の祝祭を

     *

わたしは誰が語るかを語るものについて語る わたしは独り
わたしはひとつの小さなもの音にすぎないわたしはいくつかの音をわたしの内にもつ
それは十字路で凍てつき砕けそして
湿った歩道のうえにみずからの死とともに急ぎ去る人びとの足もとに
両腕をひろげる死のまわりに
太陽のしたでただひとり生きる時刻の文字盤のうえに投げすてられたもの音なのだ

     *

暗い夜の吐息は濃くなり
さまざまな存在の層のオクターブに移調された海のフルートは
血脈に沿ってうたう
もろもろの生は極微の原子にいたるまで無限に繰り返され
空の高みでわれわれの見ることのできない空の高みで繰り返される
そしてまたそれらの生は われわれの傍にありながらわれわれの眼には見えないあの生とともに
幾多の平行する道の紫外線とともに
われわれが通ることができたかも知れぬ道とともに
われわれをこの世に導かなかったかも知れぬ道とともに
あるいは遥か昔にあまりにも遥か昔に発ったゆえに
その時代も土地も忘れられわれわれの肉も吸いつくされて
塩と金属と透明な液体だけを井戸の底に残していったかも知れぬ道とともに 繰り返されるのだ

     *

わたしはいま言葉がその核のまわりに
われわれの名である夢のまわりに織りなす熱のことを考えるのだ