武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『存在の彼方へ』E・レヴィナス著・合田正人訳(講談社文庫)

toumeioj32006-02-11

 書物を取り上げたのに雑感としたのには理由がある。これは、読んでもいないのに言及する気になった珍しい本だからだ。何度読もうとしても、読めなかった。正直、何を書いてあるのか、さっぱり分からなかった。こんな本は珍しい。原書が難解なのか、日本語訳がいけないのか、私には分からないが、千いくらか出して購入したのに手も足も出なかったことはやはり悔しい。版元が買い戻してくれるなら今すぐにでも返品したいくらい。裏表紙に書いてあるコピーを引用してみる。

フッサールハイデガー現象学を学び、
フランスに帰化したユダヤ人哲学者レヴィナス
戦争の世紀の証人として生き、「平和とは何か」の問いを
極限まで考察したいヴィナスは、本書において
他者への責任とは他者の身代りになることだと説く。
存在と時間』(ハィデガー)以降最も重大な著作とされ、
独自の〈他者の思想〉の到達点を示す大著の文庫化成る。

いかがですか。読んでみたくなると思いませんか。私が購入したのは、00年8月第2刷のもの、99年の第1刷は売れたということなので、買ってみたが、こんなに読めない本だとは思わなかった。また、本文から第1章の冒頭をほんの少し引用してみよう。

第一章 存在することと内存在性からの超脱
1 〈存在〉とは「他なるもの」
 超越に何らかの意味があるとしても、その意味するところは、存在するという出来事−存在性−存在することが、存在とは他なるものへと過ぎ越すという事態を措いてはほかにありえない。それにしても、存在とは他なるものとは一体いかなるものなのか。たとえばプラトンは、『国家』においてすでに、存在することの彼方を語っている。にもかかわらず、『ソフィスト』で提出された五つの「類」のうちに、存在と対立する類を見いだすことはできない。存在とは他なるもののみならず、過ぎ越すという事態〔成就された事実〕もまた実に不可解なものだ。過ぎ越すという事態が存在とは他なるものに行き着くもので、それゆえ、過ぎ越しに際してみずからの事実性〔既在性〕を解体することしかできないとすれば、過ぎ越すという事態に一体どのような意味がありうるというのか。

間違って引用したのではないかと心配になったので、何度も本文と照らし合わせてみたが、全くこの通りだった。これは何語だろうか。少なくとも日本語のような形をしているが、私には、とても長年親しんできた日本語とは思えない。本文は450ページ以上もある。他のページを見てみたが最後までこの調子は変らなかった。訳者のあとがきによれば文庫化に際して、全面的に訳文を見直したとある。何ということだろう。
 私には、この本を最後まで読む気力も能力もない。引用の部分がすっきり理解できる人以外は、この本に1250円を投資されないようご注意申し上げたい。