武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

『宇宙消失』グレッグ・イーガン著/山岸真訳(創元SF文庫)

 どんなに長生きしても百年以上は生きられまい。となると、2050年より先の話となると私にとって間違いなく死後の世界と言うことになる。無責任になれば、あずかり知らぬ時代ということになるが、経験不可能なだけに好奇心の対象としては、覗けるものならなんとしてでも覗いてみたい世界。ありがたいことに出来のいいSFは、そんな適えられないはずの興味を刺激してくれる。時代小説を読んで、後ろ向きにほのぼのするのとは逆の、飛躍しすぎてクラクラ眩暈がするような未来絵図、SFを読むのにはそんな楽しみかたもある。

 オーストラリア生まれのSF作家、グレッグ・イーガンの初期の長編小説、『宇宙消失』は、読者のそんな好奇心を十分に満足させてくれる力作なので紹介したい。物語が現在形で進行する時代は、西暦2068年、元警察官の探偵ニックに、匿名の依頼人から失踪した重度の先天性脳損傷患者ローラの捜索を依頼され、捜索を進めてゆく過程で、次々と明らかになる不思議な謎の連鎖がストーリーを組み立ててゆくいわば近未来を舞台としたハードボイルド。
 ところが、全体の三分の一も進まないうちに失踪人捜索の第一部が終わり、第二部の量子力学の論理を取り入れた、主人公の宇宙論的な自分探しの物語となる。こちらの方が物語の主筋らしく、全体の三分の二をつかって執拗に書き込まれている。この量子力学的な世界観がいまひとつシックリしなくて、部分的には目を瞠るようなイメージの展開を楽しんだが、理屈に付き合いきれなくててこずったことを正直に告白しておこう。作者としては、この第二部の展開がセールスポイントなのだろうが、私は、ちりばめられた未来世界の進化したテクノロジーのリアリズムが面白かった。
 現在はまだ手探り状態の先端的なテクノロジーが、日常生活の中で実用化されて、主人公が使いこなしている描写は、ワクワクするほど楽しかった。人間の脳神経の結線を用途別に再結線して、脳の構造それ自体を生きたコンピュータとして操作、ナノテクノロジーと組み合わせて人体そのものが化学工場のように使われている未来社会の日常に、呆れるやら感心するやら、作者の卓抜な想像力に拍手。登場するテクノロジーごとに、製造元とドル換算の値段が表示されているのも楽しい。
 太陽を中心とした半径120億キロの太陽系を包む完璧な球<バブル>と主人公のアイデンティティをつなぐ量子力学の論理、何とも壮大で魔術的なストーリー、この部分が、読むものを大きく二つに分けてしまうことになるだろう。高校の物理の時間をワクワクして過ごした人(そんな人何人いるかしら)には、格好の読み物かもしれないという気がした。展開自体は、ミステリータッチでハラハラドキドキして面白いのだが、道具立てがかなりややっこしい。ポストサイバーパンクという分類がぴったりする気がする。アクロバットのような論理展開を、毛嫌いせずに楽しめたら、この小説は十分に元が取れる。
 最後に、翻訳者が苦労して収集したイーガンの作品リストが、ネットで見つかったので興味のある人は、行って見てほしい。大変な多作家らしい。翻訳も他に沢山出ている。
【究極の作品リスト】グレッグ・イーガン全小説 (山岸真 作成)
http://www.tsogen.co.jp/web_m/yamagishi0603.html