武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『善き人のためのソナタ』 (2006年ドイツ映画) 監督:フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク 出演:ウルリッヒ・ミューエ、マルティナ・ゲデック、セバスチャン・コッホ、ウルリッヒ・トゥクール、トーマス・ティーメ

 12月5日WOWOW放送の『善き人のためのソナタ』という映画をテレビで見た。主演ウルリッヒ・ミューエの押さえた渋い演技、巧妙に組み立てられた見事な脚本、美しい画像、沁みいるような音楽、久々に見た大人をほろりとさせる素晴らしい映画だった。

 主演のウルリッヒ・ミューエが気に入ったので調べたら、今年の7月22日に胃癌で54歳の若さで亡くなっていた。この映画で世界的な名声を得て間もなくというから、人の一生は儚い。ご冥福をお祈りしたい。
 時代背景は崩壊直前の1984年の東ドイツ、旧共産圏の監視国家を舞台とした国家保安省(シュタージ)の局員の物語。ベルリンの壁崩壊が1989年11月10日、この歴史的事実を念頭に置いてみると、ドラマは俄然歴史的な重みを伴って見えてくる。固定化した管理社会は、管理する側もされる側も、凍りついたような管理体制が張り巡らされた日常からみると、永遠に続くかのような幻想を与えて怖いが、来るべき時に必ず崩壊する。しかし、分かってはいても管理社会の怖さを、じっくりと見せつける前半のリアルさは、下手な恐怖映画をしのぐ。管理する側の視点で描かれているのに、視点人物に感情移入できず、つい被害者側に立って見てしまうので、何度も背筋が寒くなる。(画像は当時のベルリンの壁Wikipediaから)

 監視対象の劇作家の友人が自殺したあたりから、物語は折り返し地点を過ぎて、監視人物の監視対象への共感が始まる。監視人物の内面の変容が起きるところからの主演ウルリッヒ・ミューエの演技が何とも素晴らしい。仮面のように無表情な権力者の表情を崩すことなく、眼の中に温かい感情を込めて演技するところが何とも凄い。題名に使われている<善き人のためのソナタ>の音楽に揺さぶられて、屋根裏の暗がりの中で無言でただ涙を流す主人公の監視者。押さえた演技の極致。
 後半の粗筋を書くと、物語のネタをばらしてしまうことになるので省くが、管理社会が、管理社会であるが故に自ら崩壊してゆく姿を描いた、芯のある歴史ドラマとして見る価値のある傑作。最後の最後にびしっと決まる見事なオチといい、脚本の組み立ての何とも見事なこと、バタバタしたハリウッド映画に飽きてきた方には是非お勧めしたい。素晴らしく後味が良いので、最後まで見て損しない。