武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『オリガ・モリソヴナの反語法』 米原万里著 (集英社文庫)

 一言で紹介しにくい小説だけれど、傑作間違いない、小説を読む楽しみを詰め込み過ぎるとかえって失敗作になることが多いが、この米原さんの処女小説はそんなことはない。見事に成功をおさめた力作にして名作。楽しくユーモアに充ち溢れ、しかも深刻で重く、スリルとミステリーが張り廻れされていてがっしりした筋立て。見事というほかない。

 この小説を読んで、女性の視点から見た強制収容所について考えたことがなかったことにはたと気づいた。ナチスであれソ連であれ、収容所についての報告は男性のものが多く、いつの間にか男性的視点に偏った強制収容所のイメージをつくってしまっていた。男性とは違う女性の強さを発揮して収容生活を生き抜いたレポートを読んでみたいと思った。
 この小説の気に入った点を、いくつか列挙してみよう。
 まず第1に、登場人物に素晴らしく魅力的な人が多いこと、題名になっているオリガ・モリソヴナという老ダンス教師のくっきりして躍動的な存在感、オリガとセットになってオリガとの対照が鮮やかな優雅なフランス語教師エレオノーラ・ミハイロヴナ、そしてこの二人の養女にして天才バレリーナの美少女ジーナ。この小説に出てくる魅力的な人物は数多い。
 第2に、極めつけの悪役は登場してこないが、卑劣な人間は、随所に出てくる。人間という生き物は何と弱い生き物なんだろうと、情けなくなるほど、いっぱい出てくる。極めつけの悪は、オリガたちが生きたスターリン主義の時代のソ連体制、いやになるほど人間性の弱さに根ざした恐怖政治。わずか半世紀前のことなのに、すっかり忘れていたことをまざまざと蘇らせてくれる。戦争と革命の激動の20世紀を見事に舞台化している。
 第3に、筋立てが骨太のミステリーになって入いて、謎が謎を生み、強力な推進力となって、読み手をぐいぐい引っ張ってゆくこと。読み出したらやめられない。解かれた謎も、不自然ではなく、オリガを取り巻くたくましい女性たちの生き方と重なり、奇妙に納得がいく。
 第4に、狂言回しと探偵の役をこなしているたった一人の日本人女性、シーマこと弘世志摩の生きざまから出てくる日本人論がいい。ロシア的な生き方を鏡にした日本人の有り様が、少しだが印象深く描かれている。
 第5に、これらの重苦しいような題材が、フィクションとして書かれたので、面白おかしく深刻になり過ぎずにすいすい読めるところがいい。ソルジェニツィンの収容所列島のように、これでもかと重苦しく何巻も積み上げられるとチト辛い。米原さんの才能のおかげだろう。
 第6に、オリガたちが強制収容所で生き抜いてゆく時のエピソードがいい。どんなに過酷な環境に置かれても、逆境を逞しく跳ね返す女たちの強さ読むと、人間って捨てたもんじゃないと思えてくる。丹念な米原さんの取材から拾い上げられたエピソードなんだろう。
 半世紀前に起きていたことを、現代史のひとコマとしてしか知らない若い人たちに、ぜひ読んでもらいたいと思うが、あの時代をともに生きた方が読んでも十分に楽しめる。一昨年、作者の米原さんが56歳の若さで亡くなられたこと、残念でならない。次の、小説作品をぜひ読みたかったのに・・・。