武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 「赤毛のアン」の出版100年によせて

 「赤毛のアン」の原作がカナダで出版されたのが1908年、今年でちょうど100年になる。ネットを検索していたらそんなニュースがヒットした。記事を読むと、新潮文庫村岡花子訳の省略部分を補った新装版の企画がすすんでいるらしい。年内に、赤毛のアン関連のイベントも予定されている模様。楽しみだ。 (画像は100年前に初めて世に出た赤毛のアンの原作、ウィキペディアからの借用)
http://sankei.jp.msn.com/culture/books/080304/bks0803041118000-n1.htm

 十代のある時から折あるごとに読み返してきたので、これまでに何度読んだか分からないほど、アンの物語で楽しい時間を過ごしてきた。新しい翻訳が出るたびに、今度の訳はどんな調子か気になって、懲りずに読み返してきた。その度に、何ともいえない充実した楽しい時間を過ごした。アンの物語は誰が訳しても、それなりに面白い物語に仕上がるようにできているらしい。興味のある方は原作のサイトに行ってみて。
http://www.cs.cmu.edu/People/rgs/anne-table.htmlプロジェクト・グーテンベルク
 物語の魅力の一端を拾い上げてみよう。
 第1に、いつ読んでも何回読んでも、物語から受ける何ともいえない新鮮な感じが色褪せないところ。風景描写のさわやかさ、アンの口からとめどもなくあふれ出てくる空想話の伸びやかさ、巻き込まれたトラブルのストンと気持ちよく終息するタイミング、あげるときりがないが、このいつまでも新鮮な感じを失わないモンゴメリの表現には、いつも感心する。こんこんと湧き出る泉のように尽きない魅力。
 第2に、アンを取り巻く名脇役たちの味わいが素晴らしい。どの人物も個性がしっかり造形されていて、作中での生き生きとした動きが手に取るよう、とりわけ、アンを取り巻く大人たちのひと癖ある彫りの深さはどうだろう。マリラとマシュウの絶妙な対比、レイチェル·リンド夫人、老婦人ジョセフィン・バリーなどなど、芯のある優しい大人たちに守られて成長する子ども達の何と幸運なこと。
 第3に、アンを取り巻く子ども達のなんとも可愛らしいこと。充ち溢れる美しい自然の中で、のびのびと成長する子ども達が活写されていることが、この物語の現在を新鮮なものにしている。
 挙げてゆくときりがない。そんなアンの物語で、気に入っている翻訳が4種類、私の書棚の一角を占めている。村岡花子訳、神山妙子訳、掛川恭子訳、松本侑子訳、このほかの訳も持っているが、この4作からもらった読む楽しみは芳醇だった。
 今年は出版100年に当たるという。未読の方がいたら、記念に是非手にとって見てもらいたい。特に若い男の子、アンのような女の子がいたらいい、アンのような女の子が生まれるといい、などときっと思うはず。