武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『ネーデルラント旅日記』デューラー著 前川誠郎訳 (岩波文庫)

 数日前にデューラーの伝記を紹介したが、今回は、デューラーが自ら書いた旅日記。1950年からほぼ1年をかけてネーデルラント地方を旅行した詳細な旅の記録。読めば読むほどに味が出るというか、これに似たものをかつて読んだことがない何とも不思議な旅日記。部分的には、ドイツルネサンス最高の版画家としての観察眼がきらりと光り、鋭い時代認識と批評精神に打たれるところもあり、読みのもとしても一級品、本屋で見かけたら是非手に取って見てほしい。この国の時代でいえば室町時代、足利将軍のもと下剋上の動きが全国に広がり、戦国の気風に満ちた時代。
 さっそく内容紹介にゆこう。
 ①簡単に言ってしまえば、この本の大部分はデューラー親方一行3人(デューラーと奥さんと女中)がネーデルラントを旅行した折の1年間の支出と収入の詳細な記録。丹念に記録した家計簿のようなものだが、しかし、美術史に大きな足跡を残した偉大な画家デューラーが、膨大な自分の版画作品を商品として荷造りして持ち、お忍びではなく公式に画家として、経済発展の著しいネーデルラント地方を巡業のようにして旅する記録。日々の収支の記録は、期せずして極めてリアルな画家としての事業活動の記録となっている。一次的な生の資料なので、記述の中からたくさんのことが読み取れるので、何度でも読み返す楽しみがある。このてのものを、思い切って文庫として出版した出版社の慧眼に拍手を送りたい。
 ②持参した版画を贈呈したり販売したり肖像画を有料で描いたり、描いた肖像画をプレゼントしたり、画家としてのビジネスを大車輪でこなしてゆく日々の克明な記録は上質なドキュメンタリーを見るよう。当時の職人としての画家は、どのように生計を立て、社会的にどのような身分として迎えられていたか。どんな解説よりもリアルによくわかる。家計の収支が、かくも雄弁に多くことを語ろうとは、まったくの驚き。ハプスブルグ帝国の始祖、マクシミリアンとの画家としての濃密なかかわり、その報酬としての年金支給を確保するための策動、世界史の一端をのぞき見るような興奮すら味わえる。
 ③各都市の有力者から、偉大な画家として手厚く迎えられ敬意を表される様子、デューラーの誇りに満ちた満足感が何ともほほえましい、生涯の頂点を迎えつつある画家の日々が期せずして見事に表現されている。人間としてのデューラーに触れられる第1級の資料。生前に画家として高く評価される姿が読む者の気持ちをも満たしてくれる。
 ④アントウェルペン滞在時の記録、アルネメイデンにおける大椿事、ルッター哀悼文、それらの記述は旅日記のレベルを超え、表現者、思想家としてのデューラーの力量を強く印象付ける。特にルッター哀悼文に込められたデューラーの思想水準の先進性は、感動的。単なる画家に収まりきらないデューラーの本質がよく出ている。時代の矛盾に苦しむ人間の魂の呻きが伝わってくる。
 ⑤41点の鮮明な図版とその解説、詳しい地名索引と人名索引、行程地図、訳者の解説、本の作りとして極めて良心的、文句のつけようがないほどよくできている。出版社の実力が遺憾なく発揮された、文庫出版のお手本のような本。
 こういう本が700円で買えるとは、このことだけを取れば、良い時代になった思わずつぶやきたくなる。この本は、是非手にとって、気持にゆとりのある時に、じっくりと楽しんでみてほしい。