武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『満ちゆく生命−遠藤彰子の世界展』インプレッション


 ネットや本の画像で見かけてその絢爛たる幻想世界に魅せられ、大作主義の画家だと言うことが分かり、かねてより原画を拝見したいと願ってきたが、気がついたときには運悪く展覧会が終わっていたりあまりにも遠距離だったりして、なかなかお目にかかれなかった作品だった。それが今回伊豆の温泉に出かけた折り、池田20世紀美術館で個展が開かれていることを知り、いそいそと見に行って来た。
 伊豆高原にある池田20世紀美術館は、以前にも紹介したことがあるが、この国の現代美術館としてはちょっと別格の素晴らしい美術館、なによりも素晴らしいことには、首都圏を微妙に外れているので少し遠いが、行くと必ず空いていてゆっくりと好きなだけ、見たい絵を見たいだけマイペースで鑑賞できる。だからわざわざ出かけてゆくだけの価値はあるという希有な現代美術館なのだ。 (画像は、建物自体が現代美術の作品のような美術館、駐車場は広くていつも空いている)
 収蔵している作品も素晴らしいが、常設展示と平行して展示されている企画展がいつも素晴らしい。美術館の運営に携わってる方の、情報収集の能力と見識の高さに敬服するばかり。
 前置きはこのくらいにして、遠藤彰子さんの個展に話をすすめよう。展示作品の概要は、初期の<楽園シリーズ>から7点、中期の<街シリーズ>からも7点、中期以降の<500号シリーズ>から17点、合計31点、数の上からも分かるように90年代頃からの年間1点制作の超大作の時代が展示のメイン、500号でも凄いと思うが、大作主義はさらに膨れあがって数年がかりの1000号、1500号という巨大作品が見る者を圧倒する。
 私は原画を数枚見た段階で思わず、バチカンシスティーナ礼拝堂にあるミケランジェロの<最後の審判>を思い浮かべた。圧倒的な面積の力とでも言うべき広がりの中に定着されたあのキリスト教世界の映像の洪水に似ていると思った。絵画作品の呪縛である平面も、あまりに広大となり映像も膨大になると、何故か平面作品のはずなのに、見る者を飲み込んだり、見る者に向かって溢れ出したりして、平面作品の制約を突破してしまうことがある。例えは大げさだが、遠藤さんもミケランジェロのように、あるいはバチカンが信者に対する宗教的効果を期待したように、平面作品の枠からはみ出す絵画を志向しているような気がしてきた。
 圧倒的な迫力に満ちた1000号、1500号の超大作の原画を見なければ、こういう印象はでてこなかったに違いない。細密画のような丹精込めた緻密な描き込みがあるので、近寄ってのぞき込むと全体が上から横から包み込むように広がり、迷路に迷い込んだ迷子のような不安になり、少し下がったくらいではまだ全体がつかめず、ずっと離れてみてやっと視界全体に広がる風景として全体がつかめるようになる。1枚の絵を見るのに何とも時間のかかること、これを混雑した展覧会場で見ることを思うと、気が重くなってしまう。遠藤さんの絵は、自由に動ける広い空間のある展示会場でこそ、心ゆくまで鑑賞できる作品である。天井が高く広くて空いているこの美術館で見られたことは、本当に良かった。

 少し展示作品の内容に踏み込んでみよう。初期の<楽園シリーズ>、多分遠藤さんご自身の手になると思われる図録の解説文が、その全てを語っていると思われるので図録から引用しよう。

 楽園のテーマは、私の少女時代からの自然な想い、日常の中の幻想が絵になった連作です。恐ろしくて、楽しくて、不思議な白昼夢。若い私自身が絵の中で息づいていて、描くことそれ自体が嬉しいという感覚が漲っています。動物も植物も人間も皆同じ視線で捉えられ、正に楽園の国なのです。絵の中にはいつも、私白身の姿も描かれ、そこで過ごす時間が至福だったのです。

 サイトの<楽園シリーズ>のコメントも引用してみよう。

 油絵を描くことそれ自体に楽しみがあった。ただ思う様、好きなことを描いた。人も猫も犬も魚も木々も同じ扱い。みんな同じ言葉と感情を持っていて混然と過ごしている。嬉しくて、恐ろしくて、楽しいところ「楽園」。その中に私の閉鎖的な情感を解放し、絵の内で一緒に遊んだ。 大きな猫や不思議な人たちと。20代の夢のひととき。

 書かれてある通りに、愉悦に満ちた自己充足に満ちた楽しくて愉快な表現者としての幼年期、いずれもが童話のような自己疎外などという現代人の苦悩や不安を閉め出したかのような、文字通りの楽園世界、逃避空間である。世界を一望の下に俯瞰するような後年の兆しはすでに見られるものの、見る者を楽しませても引き込むような力はまだ見られない。好き嫌いで言えば、私はこの<楽園シリーズ>が一番好きである。
 続いて遠藤さんの名前を一躍有名にした<街シリーズ>、これもご自身の言葉がなによりもよく分かるので図録から引用しよう。

 街のテーマは、結婚、出産と生活を通して現実を見つめ始めた連作です。楽園はメビウスの帯のような現実に裏返り、植物は石やコンクリートに、象やライオンは黒い犬へと変容してゆきます。街はたそがれに照らされて、人々は歩きながら止まり、その影はどこまでも追いかけて行きます。井戸を覗き込むような擂鉢状の構成は、楽園の青空を描いていた私の現実に対する比喩であったのかもしれません。

 ここでもサイトのコメントも引用しておこう。

 現実を実感するとともに、絵も絵としてのリアリティーを求める気持ちがおきてきた。ひとりの人間、ひとりの登場人物に感情をたくさん移入して、現実の人を見た時に私が感じたように、時には笑い、悲しみ、何かを抱え込んでいるその印象、表情。その人物を現出させたいと願った。たそがれは、私にとって人々を見つめる時間、動きながら静止し、大人が子供の表情にもどり、子供が大人の表情を見せるとき。30代に感じた日。

 遠藤さんの言葉にあるように、このシリーズは作者にとって現実を見つめ、現実を発見し、現実を定着しはじめた作品だと思われる。私はこのシリーズを初めて見た時、今という時代に迫ろうとする作者の気迫に打たれた。少し過去の方にずれてはいるが、ノスタルジックな装いをした現代人の懐かしいが不安に満ちた現在、少し前にずれた現代人の心の故郷を感じた。<たそがれの光>と<擂鉢状の螺旋構造>がこのシリーズのキーワードであることは間違いない。それにしても、住んだことのない街なのに何となく感じる懐かしさは何なのだろう。
 遠藤さんは、このシリーズでも楽園の時と同じように少し現代世界からずれている。楽園シリーズでは夢の方へ、街シリーズでは微妙に過去の方へ、現実を避けてしまっているところが面白い。面白いが、これらに続く新たなシリーズに移行せざるを得なかった必然性がそこにある。
 500号シリーズへ行く前に(100号1−300号)の時代のことを振り返ったコメントがあるので、引用しておこう。

 この連作は私にとって500号のための布石としての意味を持っている。空間構成のひながたとして面積に応じたバリエーションを展開した。この連作で実感したことを元に、次々に面積を広げ、500号へと向かい、面積、大きさの意味を問いながら考えることを認識させられた。


 次は、現在につながる遠藤さんの<超大作500号シリーズ>を見てみよう。やはり、ご自身の言葉を引用しよう。遠藤さんの文章力も大変なもの、余すところなく自作を総括し表現する力を持っている。

 描くことの増殖感覚が500号へと誘い空間構成の展開へとすすんでゆきます。ここから単眼の視点から多視点へと向かい、空間構成の様々な試行がなされます。1000号、1500号に加え一年一作を重ねて今に至っています。光と空間の内に様々な要素、感情や物語性をも含めて総合的な造形を目指して制作に勤しんでいます。

 サイトのコメントも引用しておこう。

 自分自身にとって精神力、体力、イメージの充実する時を持ったことを感じた私。それは家の中で描けるサイズの限界である500号を広げ、すべてを統合したいと想った。今のうちに。埋めつくすことへの衝動。大画面の空間、構成、ダイナミズム、律動、物語性、情感、何でもかんでも押し込み、私のイメージをその画面に充満させたかった。40代のはじまり。

 <増殖感覚>とは生きていることそのものの意味、<多視点>とは多様性に満ちた現代を探求し捉えるための方法論の意味、<総合的な造形を目指>すとは、過不足なく現代を精一杯生きるという意味だろう。私は、この超大作のシリーズを前にして、<最後の審判>を強く思い浮かべたのだった。もはや、楽園のイメージからは遙かに遠く、街シリーズの螺旋構造の構成を引きずりながら、超大作の作品群では、あたかも世界を総合的に捉えようとしているかのように、<多視点>的に遠近法を再構成して、複眼的に世界をいくつもの層を重ねて再構成しようとしているかのようだ。このシリーズは本当に力強い。見る者を引きつけ巻き込み、幻惑するよう幻術のような恐ろしいほどの力作である。原画の前に立っていると絵を見る恐れと喜びでクラクラしてくる。
 1年近い精進が、一枚の絵に塗り込められ、見る者を圧倒する。私たちは、1年をバラバラの365日として生きている。遠藤さんは、1年の大部分を1枚の絵にして、凝縮し構成し集約して提示する。その前では、普通人の私たちは自分を解体され再構成されるような気持ちの揺れに襲われてしまう。<最後の審判>と感じた背景に、そんな思いが揺れ動いたからだろう。
 なお入場するとき、[Akism vol,4]という小冊子が無料でもらえるが、この小冊子、遠藤さん情報の宝庫、実に楽しい。自己紹介や作品解説、制作過程写真など、インタビューをまじえてなかなかの出来、入場の折りには忘れずに貰われることをお勧めする。
 遠藤さんの作品は、以下の公式サイトでも見られるのので、是非ご覧いただきたい。工夫した展示だが、原画の迫力には到底及ばないので、是非展覧会に足を運んでもらいたい。
http://www.akiko-endo.com/index.html
 年明けの6日までやっているので、絵の好きな方、幻想画の好きな方は、是非池田20世紀美術館にいって原画を鑑賞されることをお勧めしたい。常設展示の方も、現代美術がお好きなら、わざわざ伊豆まで遠出する価値が十分にあります。