武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『デルスー・ウザーラ』 アルセーニエフ著/長谷川四郎訳 (発行河出書房新社1975/5/10)

 明治のスキーの先達、猪谷六合雄の本を読んでいて、何度もシベリアの先住民猟師デルスー・ウザーラのことを思い出した。黒澤明監督が映画化したので、ご存知の方も多いだろうが、原作となったシベリア探検記は、この種の読み物の中でも抜きんでた傑作だった。辺境探検物のベスト10に入れたい。

 野外生活が好きな人ならきっと、作中で美しく描写される人跡未踏の極東シベリアの原野と、そこを野営しながら調査していくアルセーニエフ調査隊一行がたどる足跡と、ガイドを務めるデルスー・ウザーラの人間性などに、たちまち魅了されるに違いない。私も、悪天候に見舞われたキャンプの折りなどに、デルスー・ウザーラの振る舞いを何度か思いだした。
 黒澤監督の映画は二時間を超える大作、前編と後編の二部構成だったが、原作の探検記は三部構成、一部は<出会い>と題された1902年の探検記、二部は<再会>と題された1906年の探検記、三部が<デルスー・ウザーラの死>と題された1907年の探検記、この三部によってできている。
 一部は、分量としては少ないが、アルセーニエフ率いる探検隊の一行とデルスー・ウザーラが初めて遭遇し、アルセーニエフがデルスーとの遣り取りで体験するカルチャーショックの数々が面白い。文明から隔絶している先住民の内面に、目を見張るような大地に根ざした人間性と洞察力のきらめきを発見するときの衝撃は、モラル・ショックとでも言いたくなるような劇的な場面である。あまりにも皮肉な反近代のアイロニーに私は苦笑してしまった。
 この章でデルスーに興味を覚えた人なら、この後の長い二部も三部も、楽しく読み進むことが出来るに違いない。一部の最後の<ハンカ湖の大吹雪>のエピソードでは、氷雪原の荒野で道に迷い、厳冬の夜と猛烈な吹雪に見舞われながら、本能的とも評したくなる叡智でサバイバルするデルスーに誰もが魅せられることだろう。長い年月を荒野で生き抜いてきた者だけが持つ、明日を生き延びる直感力と知恵と創造力がなんとも素晴らしい。
 第二部、1906年の探検記は<デルスーとの再会>と題されているように、初めの部分にはデルスーは出て来ない。デルスー不在時の記述と、再会を果たしてからの記述を比べると、いかにアルセーニエフにとってデルスーが心の拠り所となる現地ガイドだったかよく分かる。極東シベリアの荒々しい自然が素晴らしい。訳者のあとがきによると、この二部の翻訳は完訳ではなく、後半の一部省略して煩瑣を避けたところがあるそうだが、読んでいて全く気にならなかった。6章の<アンバ>、12章の<匪賊との出会い>、13章の<森林の火事>、16章の<困難な状態>などの章は、興趣に富み時にはスリル満点で、無事に脱出できるか手に汗握る緊張感がある。読み物としても大変に面白いところだ。何種類かある版のなかで、東洋文庫版は、この一部と二部が省かれているので、その点は残念、この本は三部作を読まないと、本当の面白さが分からない。
 第三部は1907年の探検記、<デルスーの死>と題されているように、最後はデルスーの不慮の死によって幕を閉じるいわば完結編となっている。この三部は、訳者によれば、一切の省略なしに全部を完訳した部分らしい。読み進んでゆくと、極東シベリアの原野の初夏から厳冬期までの自然の移り変わりが、詳細に記録されていて生き生きとして何とも素晴らしい。グーグルマップの航空写真で見ると、今では相当に開発が進んでいるようだが、100年前の人跡未踏の極東シベリアの様子が目に浮かぶ。
 三部全体を通して言えることだが、当時、先住民、中国人、朝鮮人、ロシア人などが狩猟採集に入り込み、複雑な人種の共存状態にあったようだが、その中でも確実に抗いようもなく衰退し滅びつつある先住民の様子が哀れを誘う。デルスーの家族も天然痘にやられ、遺族と家の全てが感染を恐れた中国人に焼かれたことが記されている。
 この記録は、読みようによっては、デルスーを語り部とする極東シベリア先住民の、民俗学的な記録としても得難い価値を持っている。著者の専門が地誌学なので無理もないが、もう少し比較民俗学の素養が加味されていたなら、本書の実りはどれほど豊かになったかと想像してしまう、無い物ねだりであることは承知していても、かえすがえすも惜しい気がする。
 最後の方で、老化による視力の低下に見舞われるデルスーの、猟師としての悲劇的なエピソードが出てくるが、都市生活になじめない先住民の疎外感と断絶感は、読んでいて胸が苦しくなった。自然の中で生きる技術と、都市生活のルールとの何たる隔絶、デルスーは文明によって滅ぼされる運命にあったとしか言いようがない終わり方である。
 この本は、最後になって、読む者に深くて重い問いを投げかけてくる。文明という征服者が背負う十字架のようなものが読後感として残った。
 最後に目次を引用しておこう。

<デルスー・ウザーラとの出会い>*1902年の探検
1ガラス谷
2デルスーとの出会い
3イノシシ狩り
4朝鮮人村での出来事
5レフー河の下流
6ハンカ湖の大吹雪

<デルスー・ウザLフとの再会>*1906年の探検
1ウスリー江をさかのぼる
2旧信徒の村へ
3山越え
4河から海へ
5デルスー・ウザーラ
6アンバ(虎)
7リーフージン河
8呪われた場所
9海辺へ帰る
10アカシカの叫び
11熊狩り
12匪賊との出会い
13森林の火事
14冬の旅
15イマン河へ
16困難な状態
17最後の道のり

<デルスー・ウザーラの死>*1907年の探検

1出発
2ジギト湾のほとり
3行進開始
4山地にて
5洪水
6海辺へ帰る
7シャオケムに沿って
8タケマ
9リー・ツンビン
10おそろしい見つけ物
11危険な渡河
12朝餅人のクロテン捕り
13滝
14苦しい行進
15クスン河の下流地方
16ソロン
17ザ・ウスリー地方の中心
18デルスー運命の射撃
19ヘイバートウ帰る
20シホテ・アリニをこえて
21冬の祭日
22トラの襲撃
23旅の終わり
24デルスーの死

 私は河出書房新社の単行本をもっているが、図書館で借りてみた河出文庫の上下巻が楽しい挿絵入りで、活字も大きくて読みやすいのでこちらの方がお勧め、他の版は見ていないが、河出のものが三部作を全部収録しているのでお勧めできる。映画も見たが、私には原作にかなわないように思えた。


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