武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『ちぎれ雲―いつか老人介護』 由井りょう子著 (発行河出書房新社 1998/11)

 この本の紹介を著者由井りょう子とだけしておくことには問題がある。実はこの本にはほぼ同時期に封切られた同名の映画の原作がある。映画の方は、山口巧が監督脚本となっており、この本はその映画の原作をノベライズしたものだからである。
 本だけを見ると山口巧氏が表紙などの装丁にも後付けの著作権者にも表記されていないが、そのことを巡って著作権裁判が争われ、山口氏の著作権を認める判決が出ている。何だか訳ありの本を紹介するような前置きになってしまったが、このことは本書の作品的価値とはほとんど関係がない。
 発行から10年以上経って、老人介護の問題は広く社会問題として定着し、ますます深刻の度合いを深めているが、老人介護問題の入門篇として本書は、今も色あせていない良書との思いが強いので、是非手にとってみられるよう紹介したい。
 私は本書のライターである由井りょう子という筆者が大いに気に入っており、この本を手にした。この筆者を知ったのは、随筆家武田百合子のことを調べていて同姓同名の脚本家武田百合子氏の「君が教えてくれたこと」というTVドラマに行き当たり、これを原作にノベライズを書いたライター由井りょう子さんにたどり着いたいう次第。
 そういう訳で最初に読んだのは「きみが教えてくれたこと」だったが、一読、透明で淀みのない平易で分かりやすい美しい日本語に目を見張った。TVドラマはほとんど見たことがないので原作の方は分からないが、小説の方は高機能自閉症若い女の子を主人公にしたラブストーリー、ドラマの骨格を鮮やかに浮かび上がらせる文章展開が見事、場面の切り替えと接続が上手く処理されていて、最後まで一気に読ませるなかなかのできばえだった。
 他の作品がないかと探していて、本書「ちぎれ雲」を手にしたと言う訳、本書も老人介護をあつかった作品としてなかなかのできばえだった。ポイントを列挙してみよう。
①まず、由井りょうこの文章がいい。著者名を表にださないたぐいのライターとして長い間仕事をなさってきた謂わばプロの書き手としての、鍛え抜かれた文章が素晴らしい。誰が書いているかということなど微塵も感じさせないこの人の文章の透明感を私は高く評価したい。癖というものを全く感じさせない文体というのもツールとして非常に心地よいのもだと言うことを教えられた。透明なフィルムのような文体と言えばいいか。
②ストーリー展開の配置というか、前後のつながり、エピソードのつなぎ合わせ方がさりげなく上手い。これは原作である映画の脚本山口巧さんの功績だろう。個々のエピソードに老人介護が内包する複雑な課題を巧みに配置してあり、深刻すぎず軽薄にもならず、程良い触れ方で次々と介護問題の課題を紹介してゆく手腕は見事と言うほかない。著作権問題で裁判を提起したことが、山口さんの映画人としての将来にマイナスの影を落とさないことを心より願う。この力量は原作者として名前をならべてしかるべきだろう。
③介護にかかわる多くの課題を本作では、突っ込みすぎず、浅すぎず、程良い掘り下げかたでつないでいる。介護が社会からの隔離ではなく、介護を社会へ新たな形態で参加するプロセスとしてまとめようとしているところなどやや理想主義的だが、それだけ明るい終わり方になっているので読後感はすがすがしい。福祉をあつかった作品にはこのすがすがしさが是非ほしい。
④最後に参考資料として<役立つ介護情報>として数ページの資料がついている、実に要領よくまとめられていて感心した。
 映画作品のほうの「ちぎれ雲」を探したがDVDもビデオも入手できなかった。著作権裁判に発展したことと関係があるのだろうか。ノベライズされた本書は、そんなこととは独立してなかなかの介護小説であり、是非一読をお勧めしたい。とりわけ介護のことをほとんど知らない若い人にお勧め。
 なお、本書をめぐる裁判と判例に興味のある方は、以下に判例紹介があるのでチェックしてみて。
http://tyosaku.hanrei.jp/hanrei/cr/4029.html