武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

『夕凪の街 桜の国』 こうの史代著 (発行双葉社2004/10/20)


 わずか100ページ足らずの叙情的な青年コミック、広島原爆をテーマにした作品。入手して1年以上経ってしまった。なかなか感想がまとまらなくて、時々ページをめくったりしている内にいつの間にか時間が経ってしまったのである。
 この物語は三部構成、第一部は「夕凪の街」、平野皆実(みなみ)という23歳の広島在住の女性が主人公、45年8月6日に広島で被爆、10年後の55年を<現在>として物語は進行する。
 第二部は「桜の国(一)」、一部の平野皆実の姪にあたる石川七波が新たな主人公となり、小学5年生、中野区の<桜並木の街>に暮らし、溌剌とした元気いっぱいの少女時代を送っている。一部と三部の間の懐かしさに満ちた間奏曲。七波の思い出の一コマと言っていい。テーマである原爆については、弟凪生(なぎお)の長期入院生活を通して暗示される程度、弟を病院に見舞う場面での<桜の出前>が何とも愛らしく哀切である。
 第三部は「桜の国(二)」に進むと、石川七波は28歳の会社員、最近、家族に内緒で奇妙な行動を取り始めた父親の後をつけて思いがけず、広島まで行ってしまい、封印してきたはずの原爆に関連する記憶が蘇り、物語は一気に奥行きが増して複雑になる。マンガによる内面描写が素晴らしい。
 ミステリーではないので筋をたどることに余り意味はないが、丁寧に描き出される主人公の現在と、主人公が思い出すことを拒んでいる過去とのせめぎ合いがリアルで、美しいどのページの情景描写からも、不幸と死の予感が漂い、読むのが辛かった。
 ①著者のひたすら細いペンに頼って描き込まれる描写が、淡い叙情性を滲ませて美しい。スクリントーンを全く使わない線描主体の大きなコマには、思わず引き込まれるような迫力がある。この本の絵には不思議な力がある。
 ②原爆の悲惨を、視覚の表面で切り取るのではなく、主人公の登場人物の生き方の深層で受け止めて、物語を仮構してあるので、ストーリーが何とも哀切を極める。「夕凪の街」の終わりの方のコマの空白の痛々しさは、衝撃的である。死が手触りすら伴って伝わって来るところが恐ろしい。
 ③所々、セリフに紛れ込んでくる多分広島弁だと思うが、暖かみのある方言が何とも美しい。人物達の考え方の優しさが、丸みのある方言としっくり溶け合っていて素晴らしい。
 漫画がもっている表現力が、心の深みに到達した代表例の一つであろう。物事をちゃんと受け止める姿勢を持っている人には是非お勧めしたい傑作です。