武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『深海のYrr』 フランク・シェッツィング著 北川和代訳 (ハヤカワ文庫2008/4/23)


 一年半ほど前に新刊で目にしていたが、3巻の長さと派手な帯に気後れしてしまい、読みそびれていたのがbookoffの105円コーナーに3冊揃って並んでいたので、即座に購入した。一読、大満足だった。希に見る面白さ満載の近未来海洋SF小説だった。物語を構成する自然科学と現代工学の領域から蒐集された情報量が凄い。取材に4年を要したという触れ込みは、伊達ではない。この物語を読みながら、不覚にも知る機会のなかった最近の科学的知見に何度も出会い、知る楽しみと物語の楽しみの両方を味わわせてもらった。1500ページをこえる大作だが、読み始めたら止まらない強い推進力のあるストーリーなので、読み進むのに苦労はしない。海の神秘がお嫌いでなければ是非お勧めしたい。
 上中下全3巻の中には、とてもたくさんの読みどころが散りばめられているので、気付いたことを幾つかピックアップしてみよう。

 ①第1部と第2部を舞台に繰り広げられる、地球上の各地で発生する異常現象、災害のスケールが素晴らしい。最初は局地的な小規模な異変が、一気に規模を拡大し、各地に凄惨な被害をもたらす描写が、何とも怖い。いかにもありそうな科学的な根拠を提示しながら、視覚的効果十分なカタストロフィーを展開する筆力は見事というしかない。文章表現は、映画などの視覚効果が必要とするコストが不要なので、果てしなく規模を拡大できて、凄まじい破壊シーンを展開できる強みがある。本当にこんなことが起きたらと、背筋を震わせながら読んだ。

 ②近未来SFとは、現在すでに存在している科学技術を基礎にして仮構する物語空間で展開するSFのこと。ここ数十年の間に飛躍的に発展した海洋科学への取材が行き届いているので、フィクションの枠組みがしっかりしていて、論理的にはいかにもありそうな異変が数多く、足下が崩れそうな、不思議な怖さを味わった。久しぶりに読む近未来SF力作だった。小松左京の「日本沈没」を地球規模に拡大した作品と評したくなった、チト古いか(笑)。
 ③これだけの各分野の科学技術の専門用語を駆使するとなると、翻訳の作業がさぞ大変だっただろうと思った。カタカナのまま的確な日本語を探しあぐねたらしいところもあったが、訳が分からなくても気にしないで読めるだけの力がストーリーにある。いちいち注釈していたら、もう一冊別の本ができたことだろう。専門用語をつかった説明的な部分が意外にも、私には興味深く面白かったので、読み飛ばさないで覗き込むようにして分かるところだけ楽しませてもらうと言うスタンスで読んだ。

 ④膨大な登場人物がでてくるが、基本的には、石油資源開発の企業関係者とアメリカ軍関係者、各界を代表する科学技術者のタペストリー、登場人物のキャラクターを味わう小説ではないので、人物造形の彫り込みは深くはない。しかし中でも、アメリカ軍の女性司令官の人物像が強烈で印象深かった。セクシーで明敏、氷のように非情な美女の悪役ぶりはなかなか魅力的だった。特定の人物に感情移入して読むよりも、映画館の観客席にいてワイドスクリーンにめまぐるしく展開する映画を見るような感じで読むと、うまく楽しめる小説という気がした。
 ⑤地球規模の生態系と生物進化の超時間的なスケールに物語が集約され行くところと、アメリカ軍を中心とした人類の覇権を巡る権力闘争を絡ませて、物語の最後の盛り上がりを作り出すあたり、大変にうまい構成になっている。「ダビンチ・コード」と本国ドイツでベストセラーを争ったというのも肯ける。
 最後に、本書全体の目次とそれぞれのパートのボリュームをページ数で示しておこう。ページ数が多いパートの方がやはり読み応え十分だった。

プロローグ(17)
第1部 異変(666)
第2部 シャトー・ディザスター(346)
第3部 インディペンデンス(416)
第4部 深海へ(94)
第5部 コンタクト(43)
エピローグ(9)

 1500ページを越える面白本なので、時間がないときに手を付けると、厳しいことになるかもしれません。何かの締め切りが迫っているのなら、手を出すのを遅らせた方が利口かも。