武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『決壊/上・下』平野啓一郎著(新潮社2008/6)


先日、近所のBookoffの廉価本コーナーを歩いていて、以前から気にとめていた「決壊」の上下巻が並んでいるのを見つけ即座に購入した。一読、正面から現代社会の負の側面に焦点を当てた力作として興味深く読めたので、紹介したい。
この国の現在を描き出してゆく克明な描写には力があり、描写の細部に込められた作者のスケッチの強さには読むものを引き込む吸引力を感じた。視点人物の心理描写にも熱がこもっており、物語を構築してゆく作者の手際の確かさに安心して話について行けた。
読み始めてしばらくの間は、これは家庭小説かなと思ってしまうほど、北九州に暮らす<沢野>という一家の家族の風景を軸にして話が進んでいく。
ところが3章に入ると、北崎友哉という中学生が新たな視点人物として加わり、物語は沢野崇を中心とする沢野ファミリーの動きと、北崎友哉を中心とする北崎ファミリーの動きが併走する二家族の物語となる。この二家族の、通常なら交わることのないはずの階層と世代を異にする格差社会が、インターネットを介して繋がってくるのが、第4章<悪魔>の章である。
この物語が現代性を獲得していると思われる理由は、この章の設定にある。悪意のある誰かが、情報化社会を背景に、計画的に悪意を解き放ったらどうなるか。その匿名性と抽象性、広域性などなど、ネット社会の脆弱さを悪用した事件の着想が、この物語の最大の読みどころである。
第4章の悪魔と自称する新たな視点人物を<男>とだけしか呼ばない記述方法は、作者の巧みな考案、姓名を表記してしまっては、事件の真犯人が誰だか分かってしまい、ミステリィ風の味付けが損なわれて物語の感興も失われてしまう。事件の仕掛け人をここで謎として設定した点を、自然と取るか不自然な作為と取るかで、評価が分かれるかもしれない。クリスティの「アクロイド殺し」の例があるように、作者による読者への偽装は、ミステリィの技法として読者は受け入れるしかないのは承知のこと、私は、<男>とだけしか表記しないこの物語の流れを愉しんだ。
この小説のクライマックスは、おそらく次の第5章<決壊>と名付けられた上巻と下巻にまたがる章から始まる。第4章における<悪魔>が企んだ犯罪が、交わるはずのなかった沢野ファミリーと北崎ファミリーを巻き込み、危うい均衡をかろうじて保っていた両ファミリーの括弧付きだった現代風の<幸福>の幻影を一気に打ち砕いてしまうリアルさはダイナミックで見事。
北崎友哉の母親のモンスター・ペアレントの描写が大変にリアル、母親の不気味なまでのモンスター振りに気味が悪くなったほど、この人物造形は読む値打ちがある。
続く第6章から第7章にかけて、物語は二家族を超えて、マスコミ報道と情報化社会を媒介として社会全体に拡大、事件が連鎖して、恐るべき連続無差別テロ事件へと発展して行く。この筋立ても大変にリアルで、実際にありそうに描かれていて、一気に読まされてしまう。5章から7章に書けてのダイナミックな展開は見事と言っていい。この辺りがこの物語の最大の読みどころ。
最後の第8章<permanent fatar errors>=「永続的で致命的なエラー」、と題された終章には、個人的にはやや不満が残った。悪魔と自称していた人物の描き込みが不足しているのが物足りなかった。徹底的に造形された悪の化身を期待していたのに、通り一遍の精神疾患を仄めかした記述は、如何にも早く物語を締めくくって終わりにしたいという作者の意図が透けて見えるようで残念な気がした、勿論これは無いものねだり。
全体としては、どの視点人物についても、読者が共感を寄せられるような余地はなく、物語を構築するための視点人物としての役割に終始しており、何らかの救いを求められるような人物設定は一切なされていないので、読後感に明るい展望のようなものは期待できない。閉塞した現代社会の行き詰まり感だけがひしひしと積み重なって物語は終わりを迎える。
稀に見る力作長編なので多くの人に勧めたいが、明るい読後感や幸せな感覚を物語に期待する人には、あまりお勧めできない。むしろ、現代社会を舞台にしたスリリングでダイナミックな力のある物語を読んでみたいという方には、これを是非にとお勧めしておきたい。著者の力量は十分に実感できたので、次の長編に期待したい。