『この一身は努めたり 上田三四二の生と文学』 小高賢著 (発行トランスビュー 2009/4/2)
この本の書き出しを読んで、上田三四二が亡くなってもう20年になることに気がつき、驚いた。彼の短歌や小説よりも、エッセイや評論が気に入っていて随分楽しませたもらった。本書を手にしたのは、医師という本業を持ちながら、文学的に多くの業績を積み上げてきた、その生き方について評伝的な興味があり、いまひとつピントが合わない感じのする人物像を鮮明にしたかったからだった。
読み終わった結論から先に言えば、評伝としては取材不足の感はぬぐえないが、文学的な業績を丹念に跡づけるまとまりの良い上田三四二文学論だった。歌人、小説家、評論家などの肩書きに見られるように、上田の多面的な文学活動を丁寧に時系列にそって整理してあり、個々の作品に対する評価も中庸を得て公平な感じを受けた。その意味で初めて上田三四二に接するような人への親切な入門書になるような気がした。とりわけ短歌と小説の関連についての論究など、短歌表現の特性と私小説的展開の関係に及ぶ分析など、ナルホドと感心する指摘が多く参考になった。
「評伝としては取材不足」と感じたのは、上田三四二の関係者、特に地縁や血縁のある周辺人物への取材がほとんどなされていないような気がしたから、また、医師としてのあり方についての取材もなく、人物像については疑問点を提起するだけで、すべて疑問のまま未解決に終わっていたからである。直接、関係者に聞きに行けばある程度分かりそうなものなのに、はがゆい感じをぬぐえなかった。
評伝としては不十分な分、文学論としてはとても丁寧に気配りが行き届いていて、その点では十分に楽しめた。この著者は、上田に対する最適の肩書きを「鑑賞家」と規定するところがあるが、全く同感である。鑑賞家というか鑑定家というか、物事の価値に対する独特の視点は、いつも書かれたものを読んでいて、同感し学ぶところが多かった。上田三四二が書いたものを読むと、視野が明るくなり、曇っていたレンズの曇りが取れたような、しかも優しく暖かみのある公正なジャッジのような文体は、類がないほど魅力的だった。その点を巧みに掬いとって定着されており、頷くことが多かった。上田の好意的な理解者という感じだった。好意的な分、追求が甘くなったのかもしれないが、これ以上の追求は無い物ねだりかもしれない。
内容の展開の大枠が分かりやすいので、例によって目次を引用しておこう。
第一章 上田三四二という問題―/一九八九年一月八日/さまざまな追悼/病と死生観/西行から道元へ/麻酔からさめて/わが方法の痼疾/永遠と一瞬
第二章 短歌と批評の関係―/戦争中のとまどい/短歌という選択/『黙契』の謎/現実との不調和/現代詩との断層/批評の根底/塚本邦雄との応酬/短歌原論としての『現代歌人論』/「逆縁」のできばえ/「斎藤茂吉論」の特異さ
第三章 歌人の誕生―/なぜ東京に移り住んだのか/「詩的思考」とは何か/頑固な美意識とその裏側/批評という問題/理念と現象/『雉』という第二歌集/身体への視線/「夫の文学」から「父親の文学」へ/媒介としての庄野潤三/自然の回復/自然という胎内/短歌への沈潜/歌人としての再出発/『湧井』のもつ磁場/時間の推移に身を任せ/より穏やかに、より普通に、より平凡に
第四章 短歌と小説の関係―/『うつしみ』の語るもの/市川浩の身体論/細部に向かって/「私性」と私小説/長編短歌としての小説/上田のスタイル/願望小説集『花衣』/目的化する描写/教養小説の一変種/野心と隠遁/到達点の「冬暦」/本当の歌人になりたい/エロスと死の翳/論じにくい理由
第五章 円熟の核心―/陽光のなかの『遊行』/至福のひととき/描写するよろこび/佐太郎と柊二/観賞家/文学を楽しむ/赤彦と千樫/『つきかげ』をめぐって
第六章 一身は努めたり―/生命への慈しみ/澄むことの徹底化/「私」と世界との融合/死に臨む態度/病に耐える/幼子のいる風景/夢/なんとか生きたい/日本語の底荷/一身は努めたり
上田三四二年譜
あとがき
戦後文学の一角で、渋く多面的に輝いた、忘れがたい上田三四二と言う才能に興味のある方は、是非手に取ってみてもらいたい。物事の味わい方の宝庫のような人です。