武蔵野日和下駄

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 『日本古代文学史(初版)』 西郷信綱著 (岩波全書1951/10/15第1刷)


 また一人、戦後のわが国をリードした存在感のある識者が亡くなった。国文学の世界では主流ではなかったかもしれないが、古典を学ぼうとする多くの若者たちを引きつけ強い影響を与えずにおかなかった国文学の改革者、西郷信綱氏が9月25日92歳で逝去された。
 時代の経過とともに、この本は何度か改訂の手を加えられているが、敗戦から間もない51年に発行されたこの初版の緊迫感が素晴らしかった。文字なき原始時代から中世文学・平家物語の前までの1000年以上の時代の幅を、この国の古代社会ととらえて、古代文学の生成、発展、没落の過程として全体像を描き出すその内容もさることながら、記述全体が何とも若々しく溌剌としていて胸のすくような颯爽とした展開、これほど抑制に満ちていながらも情熱的な国文学史も珍しいのではないか。
 方法論が唯物弁証法的だとか、時代把握が唯物史観的だとか、悪口を言う人もいて著者自身が相当の改訂を加えた記述も少なくないが、朝鮮戦争が始まり、第1次日米安保条約が締結された当時、国文学の世界で、このような本を出すこと自体、相当に勇気を必要としたはず、文体の張りと緊迫感はそんな時代と無縁ではない。随所に光る鮮やかな論理展開と作品の価値をめぐる鋭い指摘、強い調子の断ち切るような断言には、強烈な説得力が漲っていた。原典への読み込みが何よりもしっかりしていて、頼もしかった。著者の青年期後半の35歳のときの作品、おそらく30歳代の前半の総てを注ぎ込んだ力作だったに違いない。
 そんな戦後の国文学界に独自の世界を築いた人物が、また一人亡くなったと聞いて、戦後的世界を構成してきた支柱の一本が、また一つ欠けてしまい、淋しい気持ちになってしまった。この国の古典に向かおうとするとき、西郷信綱が何と言っていたかと気になった、迷わぬための大事な里程標のようだった人。心からご冥福をお祈りしたい。
 最後に、初版と改稿版の目次を引用しておこう。念のため、初版の分は、特に詳しく引用する。全体の骨格に揺るぎがないことがおわかりいただけるのではないかと思う。

[1951年10月の初版]
序説  古代芸術の特質/古代的と近代的/文学史の時代区分/文学の永遠性と階級性/文学史におけるジャンルの意義
第一章 叙事詩の時代
  一 英雄時代 英雄時代とは何か/原始社会の文学/原始社会から英雄時代へ/英雄的人間の特性/叙事詩的行動/叙事詩制作の時期の問題
  二 古事記 吉事記の成立/天武天皇壬申の乱/古事記の矛盾/神代の物語/神話とは何か/神武天皇/仁徳天皇/スサノオの命/倭建命/悲劇の時代
  三 日本書紀祝詞風土記 書紀と古事記/文学としての祝詞/風土記の伝説
  四 記紀歌謡 記紀の散文と歌謡/記紀歌謡の民衆性/記紀歌謡人の生活/歌謡の形式
第二章 抒情詩の時代
  一 抒情詩の形成 記紀歌謡より万葉へ/叙事詩と抒情詩/抒情詩の本質
  二 萬葉集 初期万葉時代/柿本人麿/山上憶良/大伴旅人/山部赤人/抒情詩の完成/大伴家持/万葉の民謡/個性詩と民謡
  三 和歌と漢詩 懐風藻万葉集/知の文学としての漢詩/大陸文化と民族文化/漢詩文の全盛/仮名文字の発明/六歌仙時代/古今集、抒情詩の堕落
第三章 物語文学の時代
  一 散文の成立 古代世界の危機/浪漫的精神の自覚/散文の機能/土佐日記
  二 初期の物語 物語の成立、特質/神話と物語/竹取物語/伊勢物語/和歌と物語/大和物語/物語文学の民族性
  三 女流日記と随筆 女流文学の必然性/蜻蛉日記/家庭婦人の文学/紫式部日記/源氏物語作者の心/和泉式部日記/つれづれの精神/紫式部清少納言/随筆家としての清少納言/枕草子
  四 宇津保物語と源氏物語 物語文学の二つの典型/竹取物語より宇津保物語ヘ/宇津保物語の手法、構成、特質/落窪物語/源氏物語の本質/紫式部物語論/源氏物語の女性/その主題/宇治十帖/宇津保物語と源氏物語との比較
  五 古代末期文学の諸動向 後撰集拾遺集時代の和歌/神楽歌/民衆のカ/催馬楽歌謡/源氏以後の物語/古代末期の和歌/俊成と西行/栄華物語/大鏡/今昔物語/梁塵秘抄
結  語 古代文学から中世文学へ/平家物語/中世革命と文学
文献解説
年  表
索  引

[1963年4月の改稿版]
岩波全書改稿版はしがき
同時代ライブラリー版追記
序 古典とは何か
第1章 神話と叙事詩の時代
  1 前史
  2 英雄時代
  3 古事記
  4 日本紀祝詞風土記
  5 記紀歌謡
第2章 抒情詩の時代
  1 抒情詩の発生
  2 万葉集
  3 大陸文化と日本文化―懐風藻から古今集まで
第3章 物語文学の時代
  1 散文の成立
  2 初期の物語
  3 女房社会
  4 女流日記
  5 枕草子
  6 宇津保物語
  7 源氏物語
  8 末期の物語
  9 歌謡
  10 説話文学
  11 王朝和歌
年表
索引

 著者自身、本書の改訂については、部分的な訂正ではなくで全く新しく書いたものだという趣旨のことを書いておられるが、私が見るに、小説家が処女作に資質の多くをさらけ出すように、西郷信綱文学史の魅力と骨格は、この初版にその多くが込められているという気がしてならない。
 どこかで見かけたら、是非手にとって見られることをお勧めしたい。
 1年ほど前に編著の「日本詞華集」をお勧めしたことがある。興味のある方は、そちらのほうもご覧いただきたい。
http://d.hatena.ne.jp/toumeioj3/20070925