武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『「数」の日本史』 伊達宗行著 (発行日本経済新聞社)

 文化的活動の変遷を要素的に絞り込んだ個別文化史は楽しい。科学史、美術史、音楽史文学史、演劇史、教育史、風俗史、建築史、交通史などなど、対象を絞り込むほどに変遷のあり様がより詳細に浮かび上がり、興味は尽きない。
 新しい本ではないが、最近になった一読とても感心した良書があるので紹介したい。日本文化史の重要な一角を構成すると思われる<数>についての日本史。過去にも類書は多数あることが参考文献からわかるが、縄文から現代までが通史としてよく整理されており、よくまとまっていて読みやすかった。

 家を建てるにしても、河川の工事をするにしても、月や星や太陽の位置や動きから暦をつくるにしても、何らかの方法で測量と計算は欠かせない。そのためには、数を操作し、計算し、答えが必要となってくる。この国の昔の人たちが、特に、明治以前の西洋の数学を知らなかった頃、どんな数をどのように扱っていたのか、非常に興味深い。数の処理のあり様から、昔の生活がうっすらと浮かび上がってくるところが何とも面白い。
 古いことなので、細かいことはまだよく分かっていないことも多いが、発掘された遺跡や遺物などから推測された知見が、分かりやすく紹介されていて、なるほどと感心する。地球の気候の変動や、世界史的な技術史の動向が、東洋のちっぽけな島国にも、微妙な影響を与えており、著者の広い視野の下に繰り広げられる数の歴史は限りなく興味深い。快く知的好奇心を刺激してくれる快著。
 本書は全8章からなり、7,8章は明治維新以降の<洋算>導入とその後の展開にあてられており、やはり興味深いのはそれ以前の時代。5章と6章の江戸時代初期の数文化の拡充と中期の<和算>の展開に力がこもっており、江戸庶民に密着した算術のあり方、この国独自の数学である和算の美しさの話など、啓蒙書を読む喜びを堪能できる。また、4章の中世の数世界、1章の古代の数のあけぼのなどの各章も、興味深い内容に満ちている。
 これまで著者のいう<和算>に対する<洋算>の世界しか知らなかった者にとって、<和算>の練習問題と解法など、眼を瞠るほど新鮮で、これまでの蒙に恥じ入るばかり。面白い世界を教えてもらった。
 最後の方に出てくる対数を使った年表には感心した。このやり方なら、ビッグバンから現在までが、1ページの中に合理的に納められる。広範囲を一望のもとに認識する便利な道具だと納得した。
 小見出しの付けかたがとてもいいので、小見出しを含めて、目次をすべて引用しよう。小見出しをたどってゆくと、本書のバランスのとれた記述が見えてくる。

第一章 古代の数詞

暁闇の旧石器時代/見えてきた縄文時代縄文時代は十二進法?/謎を秘める縄文尺/一万年の縄文時代/日本祖語と流入言語/古代日本数詞の起源/古代数詞の二重構造/古代数詞とその表現/記数法はあったのか?

第二章 大陸数文化の興隆
漢民族の台頭/甲骨文----東洋初の数字/上数、中数、下数/算木/九章算術の出現/古代数学書はいま/唐の算学制度/インドの影響----巨大数/唐で止まったインド数字

第三章 漢数字、数文化の到来
西暦紀元後の東アジア/多かった空白時代の交流/現代数詞の三重構造/少数表現の弱さ/律令国家と数/養老令に見る算学/算に秀でた吉備真備奈良時代の税務調書/暦法に現れる数/大事業だった写経/平城京ピタゴラスの定理で/班田収受を支えた算師/遺産相続は分数で/表音、表意の葛藤/記紀風土記に現れる数/万葉集----遊び心の数世界/仮名文字の登場

第四章 平安、中世の数世界

「理数科離れ」の平安時代/衰退する算学、暦法/神楽歌に見る数字/宇津保物語/五雀六燕の術/おそろしきは算の道/口遊の九九/九九の東西/二中歴に見る算遊び/平安から中世へ/御伽草子に見る数/五山文字における数遊び/わが曾祖父は九九二翁/独立する算師/鎌倉時代の四捨五入/室町から戦国へ----算興隆の兆し/室町時代貨幣経済/そろばん登場/曾呂利新左衛門の背景/朱世傑と程大位

第五章 数文化興隆の江戸時代

凡下の者/「算用記」をめぐって/割算の天下一----「割算書」/消化された「算法統宗」/吉田光由と「塵劫記」/塵劫記の変遷/塵劫記の構成/確定した数表現/奇妙な金銀の比重/生活密着の明和本/明快な絵解きそろばん/暗算の東西/問題、答、術、法/田法、円法、三角法/開平、開立に見る江戸感覚/屋根の勾配問題/ゼロの表記法/複雑な貨幣交換/江戸は高金利時代/米経済は升目から/土木、測量----大切な口伝/男女の比は二対三?/入子算、鼠算/塵劫記に見る巨大数/暮らしに密着した知的クイズ/継子立/遺題とその継承/消えた問題/高まる論理性

第六章 和算----世界に並んだ科学

塵劫記を超えるもの/和算の端緒/キリシタンの影/東洋初の代数、天元術/世界初の二元並列コンピュータ/尽と不尽/円周率の変遷/その頃の西欧数学(I)/その頃の西欧数学(II)/関孝和という人物/縦書き代数式の創出/点竄術とは/解伏題----行列式の発見/円理の発展/関の角術/微積分はあったのか/深奥の和算/奇才、久留島義太/有島候秘伝を暴露/円熟の和算、しかし/和算の感性(I)----図形/和算の感性(II)----数式/漂泊の和算家/庶民の和算----算額和算の美学----アルスの世界/西洋数学の到来

第七章 洋算、その受容と克服

開国の圧力/長崎海軍の伝習所/沼津兵学校----徳川藩の貢献/蕃書調所----東大の前身/維新十年、新教育体制/学制から高等教育へ/数も、軍も、政も----木村益次郎/駆け抜けた奇才、柳河春三/菊池大麓----明治数学の開祖/会社から学会へ/菊池大麓と和算/昭和初期まであった塵劫記/明治五年の教科書/明治八年の教科書/計算尺の盛衰/到達点、高木貞治/初等数教育の変遷/国定教科書の誕生---黒表紙/到達点、緑表紙/算術から算数へ

第八章 二十一世紀の数世界

二十世紀に起きたこと/終戦----新座標軸/国定から検定へ/数学教育現代化問題/円周率は三でよい?/「学習禁止要領」/四捨五入の教え方/大学にまで及んだ学力低下/教育の東西----つめ込みと引き出し/期待される数教育/数世界の進化と退化/ウエアラブルな数世界/これから必要な数知識/差と比の社会、桁違いの社会/十倍図を考える/十倍図で見る物の値段/毒物----致死量を見る/地震----マグニチュードの対数則/放射線----もっとわかりやすく/対数史観/二十一世紀に

 最近は、本書の文庫も出ているので、入手は困難ではない。数学の好き嫌いを問わず誰もが好奇心を満足できる良書として推薦したい。