武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『嫌老社会−老いを拒絶する時代』長沼行太郎著(ソフトバンク新書)

 老人問題関連の書物を読み飽きて、しばらく遠ざかっていたが、たまたま気軽に手に取った1冊が面白かったので、取り上げてみることした。短時間で読める薄い新書ながら、内容が充実していて、興味を引く問題提起があり参考になった。
 今年度から、団塊の世代が還暦を迎え始め、大量の定年退職者が発生することになることから、団塊の世代問題をステップにした高齢化社会の問題が盛んに取りざたされる世になった。

 本書では、生涯を各ステージに分けて、誕生から社会人になるまでの準備期間から社会人として生産労働に携わる期間までをまとめてファーストステージ、退職しても元気にすごせることの多い老年前期をセカンドステージと呼び、セカンドステージと平行しながら、老齢化がもたらす病気や痴呆、老衰などの不可避な死までのプロセスを歩む老年後期をサードステージと呼び分けているところが、気に入った。
 このように分類すると、元気な老人のエピソードのような団塊の世代の今後の10年問題など、問題の本質から遥かに隔たった議論に過ぎなくなるところが面白い。団塊の世代の大半がサードステージにはまり込む20年後あたりから本当の高齢化社会の問題が姿をあらわにすると言うことは、肝に銘じておくべきだろう。
 要するに、元気な老人や裕福で暖かい家族や友人に囲まれた老人達は、社会にとっても自分自身にとって問題にならないのは、当たり前のこと。幸せに生きて幸せに死んでゆく老人は、うらやましい限りだが、何時の世にもいたことだろう。
 だが、問題となるのは、今後大量に発生すると見込まれる、幸せに老後を迎えることのかなわない、不幸な老人が問題。本書では、シニアデバイドという章を設けて、まず高齢化社会の真の問題を浮き彫りにしようと試みたところが素晴らしい。新書なので問題の全貌を明らかにできているわけではないが、問題提起をしたこと自体を評価したい。ファーストステージが陥った格差社会が、より深刻さを増してセカンドステージへ波及し、さらに振幅を広げてサードステージを迎えるというシナリオは、リアルなだけに空恐ろしい。
 第2章は、過去の時代、老人はどのようにに扱われていたかを取り上げ、第3章では老人問題への現在の様々なかかわり方や取り組みを取り上げている。
 内容を概観するために、すこし詳しく目次を引用してみよう。

序文
第1章 シニアデバイド
 1 シニアデバイドとは何か?
 2 長くなった老後
 3 老後への不安
 4 セカンドステージとサードステージ−2007年問題の次にくるもの
第2章 「老い」はどのように処遇されてきたか
 1 無文字社会での老いの処遇
 2 賛老と嫌老
 3 日本での老いの処遇
 4 中世の老僧の介護システムの工夫
 5 見苦しい老人とは−徒然草
 6 近世の老い−自衛する老人達
 7 メメント・モリ−冥途の旅の一里塚
 8 子どもと老人−対称と循環
 9 青年の登場−近代の老い
第3章 老いへの挑戦のプログラム
 1 脳と身体を見直す−アンチエイジングの科学からの挑戦
 2 家族を見直す
 3 地域社会を見直す
 4 性を見直す−谷崎潤一郎「瘋癲老人日記」
 5 企てとしての老い−ボーヴォワール「老い」
 6 「老いの神話」をうちやぶる新しい高齢者たちの登場−フリーダンの「老いの泉」
 7 死と自己決定−個人主義という最も大きな物語
 8 PPK(ぴんぴんころり)の思想−下から支える翼賛体制?
 9 エイジズムへの反省
 10 現代の老いの思想−ラスコーリニコフの問い
あとがき

 老人問題は深刻なので、できるだけ多くの人が取り挙げてくれるとありがたい。気づいていなかった問題がクローズアップされたり、意外な対応策を発見したり、勉強になることが少なくない。読みやすい本なので、見つけたら手にとって見られることをお薦めする。