武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『香水−ある人殺しの物語』 パトリック・ジュースキント著 池内紀訳 (文春文庫)


 「パフューム ある人殺しの物語」という映画を先に見て、面白い映画だったので、原作に興味が湧いて読む気になった。映画と本を比較してみると、圧倒的な制作費をかけたと思われる見事な映像とスピーディーなストリー展開では、映画に分があり、丹念な時代考証と衒学的で饒舌な文章展開の説得力では原作に分があり、天秤に乗せるとどちらも平均点以上だが、どちらかが上とは言い難い出来。娯楽作品としては、どちらも良くできていて楽しめるのだが、傑作とまでは言いかねる、そんな両作品だった。
 私の好みとなると活字中毒患者なので、小説のほうを取り上げたみたい。読んだのは文庫のほうだが、単行本のデータを見ると20年前の88年に池内紀さんの翻訳で既に出ていた。迂闊であった。知らなかったということは自慢にはならないが、何かの拍子で情報とこちらのアンテナが擦れ違い、再び交差するまでに20年がたってしまっていたということ。この種の、双方が出会ってさえいれば、必ずや売買なり、人同士であれば恋愛や憎しみに発展しかねない出会いが、単なる擦れ違いで何事もなく終わってしまう。運命とは、こうゆう偶然の積み重ねで出来ているような気がする。
 さて、この本の内容は、巧みな4部構成になっている。ミステリーではないのでネタバレになることを承知で紹介すると、主人公のグルヌイユ青年がこの世に産み落とされて香水調合師の資格を手に入れるまでの、物語の時代設定と人物の人間像構築を巧みに進める1部が最も読みごたえがある。汚濁をきわめる18世紀のパリの場末で、誰から望まれたわけでもなくむしろ存在を忌み嫌われるようにして生を受けてしまった主人公が、抜群の生命力と類稀れな嗅覚を手がかりにして、逞しく成長し、匂いを媒介に世の中を認識、匂いの世界観を築いてゆく過程は、稀に見る著者の文章力と時代考証が混然一体となって、読んでいてわくわくした。
 主人公が弟子入りする香水屋の親方、バルディーニの人物像も素晴らしい。映画ではダスティン・ホフマンが演じた人物だが、主人公グルヌイユの類い稀な才能を最初に見抜き、利用しつつ育てた。パリを中心に当時のヨーロッパに広がる香水文化を体現する人物として、悲哀に満ちたブラックユーモアを演じて、物語に奥行と広がりを導入する。
 この1部の中で、主人公による第1の殺人が出てくるが、倫理観ゼロのひたすらに美しい殺人行為を、これほどに美しく描いていいものだろうか、ふと、そんな気がするほどに耽美的に殺人が描かれ、希代の連続作人事件の導火線に点火がなされる。
 第2部の前半は、人間の社会から身を遠ざけての主人公の自分探しの物語、匂いを軸に構築した世界観の中での、無臭の体に生れついた自分自身の呪われた出生をめぐる苦悩の7年間。この部分の著者の情熱的な記述は、読む者の同情をちょっぴり呼び覚ますかもしれない。感情移入が難しいのは、匂いを軸とする特異な物語展開のせいかもしれない。私は引き込まれるほどではなかった。
 そして、ニセ科学に熱中するエスピナス侯爵との出会い、侯爵のニセ科学と出会いによって自分が持つ能力の本当の威力に目覚める主人公。ここではじめて、主人公グルヌイユは反社会的な怪物として目覚めるとこになる。いつの時代にも、社会の有り様が、画期的な凶悪犯罪を、あたかもその社会の混沌の陰画のようにして作り出すものだが、この本の著者は、時代と犯罪の密接なかかわりをよく承知して、この物語を書きすすめていったに違いない。
 第3部では、香水の原液を製造する街グラースに主人公は住みつき、香水業者の下で働き、香水の原液抽出の技術を身につけて、処女の香りを原液として入手すべく、非情な連続作人に手を染めてゆく。物語の構成はすでにほぼ出来上がっており、この第3部の記述は、読み物を読む興趣には比較的乏しい。大した盛り上がりもなく主人公は逮捕され、当然のように死刑執行にまでストーリーは進むが、死刑執行の広場の逆転劇は、先に映画を見ていたので、ナルホドナとういった感じだった。この死刑執行の場面だけは、断然映画のほうがすぐれている。圧倒的な群集の乱交シーンは、稀にみる映像のスペクタクル。この場面のためにだけでも、映画のほうも見る価値はある。
 第4部は、破天荒な伝奇小説の終章、主人公がいかにしてこの世から消えてゆくかという物語。この4部をこういう形にしてしまったのはチト残念、もう一山二山盛り上げて、さらに読者を楽しませるという手立てもあったはず、しかし、それは欲張りで身勝手な読者のない物ねだり。作者パトリック・ジュースキントの稀に見る物語作者としての手腕を楽しむべき書物、面白い物語を読んでみたいという人には未読ならこれをお勧めしたい。