武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『パンドラ』 谷甲州著 (発行早川書房)

 しばらくそのジャンルから遠ざかっていると、無性に懐かしくなるジャンルがある。私にとっては、SFというジャンルがその一つ、小学生のころ夢中になった鉄腕アトムをはじめとして、SFの世界は、マンガでも小説でも厭な現実を一時的に忘れさせてくれるわくわくドキドキの夢の世界。図書館で久々に上下2巻そろいのSF大作を見つけて借りてきた本、たっぷり楽しめたので是非紹介したい。
 SFの中にはさらにいくつものジャンルがある、その代表的な<ファーストコンタクト>もの、このジャンルから生まれた傑作は多いが、谷甲州の「パンドラ」も、ミステリーや冒険小説の味わいを加味したファーストコンタクトものの力作。地球の生態系と、異星の生態系を、彗星を媒介にして遭遇させるいう壮大なスケールの物語。物語の設定としては、パンドラの生態系のほうが強く、海から陸からパンドラから送り込まれた生物兵器(?)が次第に、地球の生態系を侵食してゆくというくだりが、何とも怖い。凶悪な外来植物が繁茂するイメージか。
 この設定に絡んで、数々の登場人物たちと地球の国々が、自分たちの都合と存亡をかけた戦いを展開するという仕組み。あとは、これらの枠組みを生かして、いかに読者を引きつけて楽しませるかというところが作者の腕前、小松左京日本沈没2部のパートナーに指名した作家だけあって、最後まで、これでもかと言うほどのアイディアを繰り出し、私は十分に楽しませてもらった。気に入ったポイントを幾つか拾い出してみよう。
 ①物語全体をつらぬく主要な視点人物、要するに主人公となっているのが動物生態学者の朝倉知幸と宇宙航空研究開発機構の職員である辻井汐見、この二人の日本人の若者、高い能力と鋭い感受性の持ち主ながら、際立つ個性を付与されていないところがいい。物語の進展にしたがって、二人が巻き込まれてゆく状況は刻々と変化して壮大な物語を紡がれてゆくが、どちらにも少しずつ楽に感情移入しながら、ストレスなしに複雑な展開についてゆけるのはそのせいだろう。二人の成長過程が物語の進展と一致していて、分かりやすい。
 ②物語の進展を細部で支える、小さなSF的アイディアが実によくできている。作者の出身が土木工学の分野のせいかもしれないが、宇宙空間における構造物の描写がリアル。ちりばめられたアイディアにも何となくそれらしさが感じられ、細部のしっかりした物語世界が構築されている。上巻の<国際宇宙ステーション>の描写、下巻の彗星パンドラ探査宇宙船団建造場面の描写など、ドキュメンタリーを読んでいるようなリアルさが素晴らしい。SFを読む醍醐味といっていい。
 ③随所に出てくる事故現場や戦闘シーンの躍動感がすばらしい。一度動きの激しい戦いの場面が始まると、時が経つのを忘れてしまうほどにスリリング。主人公たちを巻き込む危機とその打開策、活劇シーンで読者を楽しませるのも作者の腕の見せ所、この点でもたっぷり楽しめる出来。宇宙空間においては、故意であろうと不慮であろうと、事故が壮大なスペクタクルになるのは、タイタニック号の例をみても分かる通り、この物語では、事故発生は活劇シーンの始まりを意味するところが面白い。
 ④20世紀の中頃、SFが若くて元気だった時、社会や文明に対する批評精神が盛んで、SFでしかなしえない辛辣な批評が、識者の注意力を喚起していたものだった。この「パンドラ」には、思わずニンマリしてしまうような諧謔と批評精神が込められていて楽しかった。そんなに遠くない近未来を舞台にしているらしく、地球上の国々の政治的な思惑が、滑稽で愉快。作者の辛辣な批評精神を楽しむのもこの下巻の楽しみのひとつ。
 ⑤これまでのSFを読んでいていつも不思議に思っていたことの一つに、ハードのメンテナンスについての記述がないものが多かったこと。どんな機械も機構が複雑になればなるほど、機能を発揮するためにはメンテナンスが欠かせない。メンテナンス・フリーでゆくか、フリー・メンテナンスでゆくか、どちらにしてもメンテナンスに対する配慮抜きには機械は動かない。消耗品の交換を含めて、ハード面の補修はなくならないと思うが、この点への配慮が乏しかったが、この「パンドラ」では、嬉しいことにメンテナンスにこだわり、かなりのウェートをかけて語られている。工学分野の出身者らしい配慮が嬉しい。
 ⑥下巻の後半、最終決戦(?)に向けて突き進む、戦いの高揚、盛り上がりは流石、地球対パンドラの戦術・戦略の白熱した対決が一気に読者を巻き込んで加速する緊迫感が素晴らしい、これぞSF小説の醍醐味。
 ⑦画像でもわかるように、単行本の表紙のデザインがなかなかいい、物語の大筋を視覚化して見事。上下巻を並べて見ると、地球生態系とパンドラ生態系の物語を暗示している。
 単行本で上下の2巻、文庫版では4巻にもなる力作長編、長編を読む楽しみをたっぷりと味わわせてもらえる。近未来型のファースト・コンタクトものとして、なかなか良くできた力作、SFにアレルギーをお持ちでない方なら是非手にとって見られるようお勧めしたい。