武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『東京大学のアルバート・アイラー―東大ジャズ講義録・歴史編』 菊地成孔、大谷能生著 (発行文藝春秋 2009/3/10)


 久しぶりに知的刺激に満ちあふれた楽しい本を読んだという感想を持った。単行本が出た時点でずいぶん話題になっていたので気になってはいたが、文庫版が出たので手に取った次第、これまでに何冊か読んだことのある<ジャズの歴史本>が、一気に色褪せた気がしたのには驚いた。
 <一般的なジャズ史>に対する刺激的な挑発の前書きが、若者らしく溌剌として面白いので引用しよう。本書全体に流れる雰囲気と文体がつかめるので、この部分はしっかりと押さえておきたい。

ジャズ史に限らず、およそ人間が編纂する歴史は総て偽史である。この「歴史」が持つ構造的な不全性が近代を牽引しているのではないかと思われるが、我々は巷で喧伝される「一般的なジャズ史」が、それにしても余りにロマンチックで思考停止的で自己完結的で非越境的であることに辟易していたところだったので、魅力的な(信用され、汎用され、正史として採択されるような)偽史を新たに生み出すなどという犬事業に着手する遥か以前の仕事として、とりあえず「一般的なジャズ史」という、実に厄介な巨魁の綻びを、毎週決まった時間に決まった場所に赴き、丁寧に丁寧に縫い合わせていく。という、中世フレスコ画の修復職人もかくや。といった地昧で誠実な仕事を一年間することになった。

 同じ前書きの別のところで、「総ての歴史は始原の捏造から始まる」とも書いているように、この著者は歴史というものに対して極めて覚めた意識を持ち、既成の<ジャズ史>のみならず<西洋音楽史>までも視野に入れて、解体と再構築を大胆に勢いよく面白可笑しく進めて行く、それが大雑把に括った本書の内容である。
 もう少し内容に触れると、第1章に記されているように、音楽を記号的に処理する体系の変遷をベースにした<近現代商業音楽史>の試みということになる。音楽を記号的に捉え、分析したり制作したりできる体系(方法論)として、十二音平均律からバークリー・メソッド、そしてMIDIへと経由する記号処理の流れを仮説として設定するのが、本書を貫く骨組みである。単なる一聴衆として音楽に接している限り、音楽は響き渡るドラマティックな心地よい音響であり、よほどのことがない限り、記号としての、あるいは楽譜としての音楽とは余り関係がない。音楽を音響効果としての印象批評をこえて、記号的に捉え語るという発想自体が面白い。読んで楽しい音楽技術論は非常に初めてお目にかかった。
 キーワードだけを繋げても何のことか分からないが、本書を読み進むと、楽典が苦手な私にも著者達が言わんとすることは、かなりの程度のみ込めてくる。軽快な話し言葉の勢いに乗って、難解な内容がすらすらこちらの頭に入ってくる不思議な文体である。書き言葉としては、日本語として奇妙なところもあるが、私はほとんど気にならなかった。語り口の活きの良さの方を楽しんだ。
 さらにもう一歩内容に踏み込むと、第2章と第3章がアメリカで興った現代商業音楽としてのモダン・ジャズ概論、ここで共時的に押さえておくべき課題を要領よく整理しておいて、第4章から第10章がモダン・ジャズの時代の変遷をたどる通史的な各論編、著者が現役ミュージシャンのため、引用される音源の分析が、印象批評の領域をこえて技術的な分析が出てくる辺り、(よく分からないところもあったが)これまでのジャズ批評の欠落部分を補足してくれている気がして新鮮だった。
 第10章のMIDI(いわゆる打ち込み音楽)の登場と、モダン・ジャズのモダニズム終焉のあたりを、もう少し詳しくやってほしかった。即興演奏が打ち込み音楽と相容れないくらいはわかるのだが、打ち込み音楽による今後の音楽の動向が気になるので、現役の音楽家としての見通しをもう少し展開してほしかったのである。
 簡単に内容を紹介してきたが、本書の面白さは、その刺激的な内容よりも、その乗りの良い抜群の話し方にある。随所に(笑)というマークが出てくるが、聴講生は終始笑わされながらこんな斬新な講義が聴けたなんて、羨ましい限り。半数近い聴講生がモグリで占められていたという伝説の講義の本領は、そのライブ感溢れる語り口にあると言って過言ではない。自分の学生時代を思い起こしても、味のある面白い脱線をしてくれる教授の講義の方が、人気もあり学生達の受けも良かった。著者の極めて越境的な豊富なペダントリーも、私には嫌みではなく、若いのによく本を読み勉強しているなと言う好印象につながった。最後に、本書の目次を引用しておこう。

第1章 十二音平均律→バークリー・メソッド→MIDIを経由する近・現代商業音楽史
第2章 ジャズにおいてモダンとは何か?―ビバップとプレ・モダン・ジャズ
第3章 モダンとプレ・モダン―50年代に始まるジャズの歴史化・理論化と、それによって切断された事柄について
第4章 1950年代のアメリカと、ジャズ・モダニズムの結晶化
第5章 1959〜1962年におけるジャズの変化(1)
第6章 1959〜1962年におけるジャズの変化(2)
第7章 フリー・ジャズとは何からのフリーだったのか?
第8章 1965〜1975年のマイルズ・デイヴィス(1)コーダル・モーダルとフアンク
第9章 1965〜1975年のマイルス・デイヴィス(2)電化と磁化
第10章 MIDIモダニズムの終焉〔ほか〕
第11章 前期テスト
第12章 アフターワーズ

 この本を読んで、処分しないで残してある大量のLPとCDをまた再生してみたくなった。良い音楽書には、聞き飽きた楽曲を新たな気持ちで聴き直させてくれるという得難い効能がある。ジャズがお好きな方にもそうでない方にも、音楽を新鮮な角度から見直す切っ掛けとなると思うので、是非お勧めしたい。