武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『フロスト気質(上)(下)』 R・D・ウィングフィールド著/芹澤恵訳 (発行創元推理文庫2008/7/31)


 現役のころのある日の通勤電車の中で見た光景、夜の退勤時刻の空席に腰を下ろした老紳士が、鞄から取り出して読み始めたのはシリーズ3冊目の「夜のフロスト」だった。書店で購入したばかりらしく1ページ目からゆっくりと読み出したその様子が、芳醇な喜びを滲ませて、静かな一枚の活人画のように見事に決まっていた。この人はフロストを読む楽しみを知っており、読み始めた瞬間から周囲の出来事から自分を遮断して、何時間か至福の読書体験の中で過ごすのだということが全身から伝わってきた。フロストを読む人は、読んでいる時とても良い表情をするに違いないと、それ以来何となく思い込むようになった。
 そんなフロストシリーズの最新刊(?)をbookoffの105円コーナーで見つけた。はじめに上巻を入手、待っていたら下巻も見つかり、合わせて210円で入手できた。作者や出版社に申し訳ないが、これは時間だけはたっぷりある退職者の意地の悪い楽しみ方、一読、やはり文句なく面白かった。何故こんなに面白いのか、訳が分からないほどに面白かったので、気付いたことを拾い出しながら紹介してみよう。
(1)推理文庫に納まっているが、これは推理小説ではない。ミステリーに分類するにも無理がある。頻発する事件や犯罪を解決するのは、主人公の明敏な頭脳でも、人並み外れた行動力や体力でもないからだ。主人公フロストの推理は、事件を解決から遠ざけ、余計な新たな犯罪の火種にすらなりかねない失敗を積み重ねる。期待通りに(笑)失敗しドジを踏み続ける、とんでもない錯誤の過程が何とも面白いのだから困ってしまう。これは失敗を約束された警察を舞台とした笑劇である。
(2)警察組織を笑いものにするための仕掛けが特別変わってるわけでもない。縦割りの官僚組織である警察組織を繰り返し逸脱して、硬直した官僚主義を嘲笑、セクハラとダジャレと脱線を繰り返す主人公フロストの底辺に流れるのは素朴な庶民感覚なので、いつの間にか主人公の逸脱に読者は肩入れしてしまう。フロストにだけはなりたくないと笑いつつ、途中からなっても良いかなという気になって、いつの間にかそのフロストに感情移入してしまう。目を覆いたくなるような失敗を繰り返しながら、時折見せる人情味あふれるフロストの言動が、何故か激しく読者の共感をかき立てる。知り合いは、<釣りバカシリーズのハマちゃん>の警察バージョンではないかと言ったが、その通りだという気がする。
(3)何と言っても、芹澤恵さんの日本語への翻訳が素晴らしい。下品なジョークや滑稽な主人公達の言動が、通りの良い日本語に見事に移し替えられているので、寛いだお楽しみモードですいすい読み進める。しかも文章自体は下品ではない。むしろ端正と言いたくなるようなきちんとした日本語で、ドタバタ喜劇が鮮やかに描き出されてゆく。この味わいが何とも言えない。軽い酔い心地を誘発するような名訳である。この訳文がフロストを生かしている。
(4)物語全体のプロットが特に巧妙なわけではない。ストーリーの展開もご都合主義的で、通常のミステリーにしたら駄作になりかねない話の流れを、細部をおろそかにせず、克明に絶妙の距離感をとりつつ描き出す巧みな筆運びから目が離せない。筋を追うのではなく表現の綾を楽しみながら辿って行くのが楽しいと言おうか、文章を辿ること自体が楽しみとなるのだから不思議である。このお話を読みながら、この文体でセルバンテスのドンキ・ホーテを読んでみたいと何度も思ったほど。
(5)事件が無秩序に次々と発生して混乱を生み出して行く前半、捜査が失敗を重ね主人公が窮地に陥り、混乱はますますどうしようもなくなる中盤の混沌とした盛り上がりに何故かいつもワクワクさせられる。後半、偶然やまぐれが重なって一気に物語りが終熄に向かう時の、驚くべきスピード感、いつも物語を読む醍醐味を満喫して満足感に満たされて読み終わり、気持ちの良い読後感が味わえるから不思議。今回も物語を自在に操る作者の手並みに終始感心させられっぱなしだった。
 <寅さん>や<釣りバカ>のようなお笑いが好きなミステリーファンで、まだお読みになっていらっしゃらなかったら、是非手にとってもらいたい。時が経つのを忘れるような読書の醍醐味がきっと味わえます。