武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『無名』 沢木耕太郎著 (発行幻冬舎2003/9/15)


 沢木耕太郎のノンフィクションをずいぶん長く愛読してきた。彼の文章には、いつも鮮やかに物語の形にきりとられた人々の生きる姿が生き写しになって焼き付けられている。事実に基づくノンフィクションだから、並の小説などにはとても真似の出来ないリアルな感触があり、抑制のきいた巧みな語り口と合わせて、類い希な説得力が多くの読者を魅了してきた。これまで、何度も紹介しようとしてしそびれてきたが、先日、たまたまBookoffの105円コーナーで見かけて手にした本書に思いの外深く引き込まれたので、沢木作品を初めて紹介してみよう。
沢木耕太郎には自ら<私ノンフィクション>と自己解説する、沢木独特のノンフィクション作品がある。人によってはニュー・ジャーナリズムめいた作風と呼ぶかもしれない。客観的な描写の背景に作者が隠れるのではなく、焦点となっている対象人物とともに、視点人物として作者が意識的に作品の表面に姿を現す手法である。「一瞬の夏」や「深夜特急」がその代表的な作品、たぶん<私小説>を捩った沢木の諧謔的なネーミングなのだろう。本書は、その<私ノンフィクション>に新たに加わることになるだろうなかなかの佳作である。父親を看取った介護がテーマの作品だが、この物語はよくある介護ノンフィクションには入れにくいような気がした。
②2章「生きすぎて」にすすむと、介護の対象である老父に何故か食欲がなくなり、衰弱が目立ち始める。この章で沢木は、前の年の米寿の祝いの席における父親のふともらしたセリフ「少し長く生きすぎてしまったかもしれないな」を思い出すところが印象的。私は、自分の死期が近いことに気付いたかのように、まるで絶食するかのように食欲を失い、みるみる体力を失ってしまう何人もの老人達の事例を思い出した。高齢の老人の場合、食を絶っているのか、食欲を失っているのか、本人以外には見分けが付かないところがあるが、その結果は同じである。高齢者の場合、食欲は生きる意欲とほとんどイコールである。
③3章では、衰えた体力に吸い寄せられたように、老父は肺炎に罹り発熱がはじまる。夜間介護に付きそう沢木が回想する子ども時代が感傷的だが何とも美しい。晩年になって始めたという父親の俳句の引用と解釈に肉親らしい暖かさが滲む。58歳の時に近所の友人に誘われて始めた俳句を65歳の時に止めてしまったが、88歳になって再開したのだという。この初老期と最晩年の父親の俳句が、これからの流れの主要な柱になって行く。父親の僅かな自己表現を読み込むことにより、沢木と父親との二人の表現の相互理解の物語が動き始める。沢木流の<私ノンフィクション>が始動する。
④沢木の回想の中から浮かび上がってくる父親像を読みながら、不思議でならないことがあった。それは、沢木には父親との葛藤の体験、反抗期がまったくなかったと言うところだ。父親がどれだけ優しいかは別にして、子どもの成長過程においては、自立するための梃子として、表面は穏やかであったとしてもいかに父親が知的に偉大であったとしても、自立への軋みのような、精神の殻を脱ぐ時の傷みのような何らかの葛藤は避けて通れないはずと思ってきたが、沢木はそれに思い当たらないと言いきっている。私には、この点だけはどうしても理解できない親子関係だ。試作した小説の形で父親をナイフで殺すエピソードが出てくるらしいが、反抗期にふれた場面としては肩すかしをくったような気がしないでもない。反抗らしい反抗を許さないほど偉大な父だったと言いたかったのだろうか。
⑤7章で、自宅に戻り元気を回復したようにみえた父親に、型どおりあっけない終わりが来る。この後は、葬儀の手順が型どおりに進むしかないように、描写は緩やかな階段を下りて行くように、葬儀と句集造りをなぞりながら、静かに終わりに向かって進んで行く。良い父親と良い息子の出来過ぎとしか言いようのない鎮魂の物語はこうして終わりを迎える。定石どおりのクライマックスをあえて作ろうとしていないところが自然で好ましかった。 
⑥明治の終わりに生まれて、89歳まで生きた男を追悼する思い出にしては、戦争の影がほとんと感じられないことも不思議だった。少し戦争に触れたところがないではないが、極めて希な人生を生きた方だったような気がした。沢木は、同時代の男達の中の一人として、父親をとらえ返そうとは決してしない。孤高を愛した父親を、そのまま周囲から孤絶した姿で描き出している。これも一つの選択なのだろう。そのため、題名を無名に選んだように、サラリとして透明感のある上品な味わいの<私ノンフィクション>に仕上がったのかもしれない。肉親を描く方法としては、この程度が節度あるやりかかもしれないなと、最後に納得した。この亡くなった明治男は、良い息子を持ったなという気がした。
 皮膚を接するようにして、心と心をすり合わせながら共に暮らす家族だからこそ、ノンフィクションの対象とするのがいかに難しいか、痛感した。今なお生きている兄弟や母親への、気配りの繊細なこと、沢木の息詰まるような配慮に満たされた心遣いにも一読の価値がある。父親を看取る家族の絆と、絶妙のタイミングでこの世を去って行く父親が、一緒になって描き出す別れの儀式は一幅の絵を見るように美しい。