武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『輝ける闇』 開高健著 (発行新潮社1968/4/30新潮文庫あり)


 猛暑が続いて日中ぐったりとなりながら、日陰で焦げたような匂いのする熱風に吹かれていると、何故か開高健の「輝ける闇」が読みたくなる。けだるい8月、敗戦や被爆の回顧が年中行事としてメディアを飾るのに影響されるのか、これまで何度もこの月に「輝ける闇」を読み返してきた。この作品はこの国の文学の中では非常に珍しい現代の戦争文学であり、相当に難解な作品ではあるが、繰り返し読んでもその度に読む喜びを味わえる、開高文学の最高傑作である。
 ある時、ユダヤ人哲学者エマニュエル・レヴィナスの『全体性と無限』(岩波文庫)の序文を読んでいて、開高健がこの作品で描いていたのはこれかなと思う文章に行き当たった。第二次大戦を最も凄惨な運命として受け止めるしかなかった民族から出てきた、叡智の苦さと奥行きがレヴィナスの言葉にはある。少し長いが「輝ける闇」を読み解くキーワードになると思うので引用しよう。

 戦争においては、現実を覆っていたことばとイメージが現実によって引き裂かれてしまい、現実がその裸形の冷酷さにおいて迫ってくることになる。冷酷な現実として、ものごとの過酷な教訓として、戦争は、純粋な存在をめぐる純粋な経験というかたちで生起する。しかも、幻想という覆いが燃えあがり、まさに閃光をはなつその瞬間に生起するのである。この閃光の暗い輝きのうちでえがきとられる存在論的なできごとによって、それまではそれぞれの同一性につなぎとめられていたさまざまな存在が、運動のなかに投げこまれる。その存在論的できごとは、絶対的で孤立したものを、だれも逃れることのできない客観的な秩序によって動員する。そこでは、力の試練こそが現実的なものの試練なのである。とはいえ暴力は、傷つけ無化することにあるのではない。むしろ、人格の運続性を中断させ、そこにじぶんを見出すことがもはや不可能であるような役割をひとびとに演じさせることにある。きずなばかりか、ひとびとのそれぞれに固有な実体をも裏切らせ、行為の可能性のいっさいを破壊してしまうにいたるような行為を遂行させるところに、暴力が存するのである。近代戦であるかぎりすべての戦争は、それを手にするものに跳ねかえるような武器をすでに使用している。戦争はある秩序を創設し、それに対してだれも距離をとることができない。戦争の秩序に対しては、だからなにものも外部的ではありえない。戦争が、外部性や、他なるものとしての他なるものをあきらかにすることはない。戦争はむしろ、〈同〉の同一性を破壊してしまうものなのである。

 難解なことで人々を尻込みさせるレヴィナスの言葉なので何とも難しいが、戦争の苛烈な本質が、難解な言葉の壁を通して伝わってくるような気がする。さて、我らが開高健の作品を手に取って、今回読んで気付いたことを拾い出してみよう。
①<闇の三部作>に共通している型式だが、全体が日付のない日記のスタイルで書かれている。文章のはじめに記号のように「 月 日」と記されている。このことは、日付は特定しないが、現代のある日の一日の出来事として記述していることを意味しているだろう。記述の総てが現在進行形の出来事であることを表す。回想であっても、その日における回想となり、現在に呼び戻された限りでの過去となる。この作品の時間はすべて剥き出しの現在として提示される。開高健が選択した表現時制と言えよう。熟慮の果てに見いだしたぎりぎりのスタイルであろう。
②数えてみると全部で17日分に分かれている。はじめの4日分が、サイゴンの北東52kmの位置にある、米軍と南ベトナム軍の前線の砦(基地)における日常生活の描写である。続く12日分は、サイゴン市内(現ホーチミン市)における戦場の背後で展開されるベトナムの市民生活が描かれる。現地で取材する特派員の生活を含め、内線を体験している市民生活の悲惨が、亜熱帯のむせ返る熱気を通して息詰まる濃密さで定着されていて目が離せない。最後の17日目は、主人公が最前線の作戦に加わり、過酷な戦闘に巻き込まれる本編のクライマックス、ジャングルの戦闘を活写して息を飲む迫力である。
③基地における4日と最後の戦闘シーンの1日の間に挟まれたサイゴン市の12日間に、戦争に挟まれた現代の世界に生きる人間の真実があり、恐らく開高の本作における力点もこのあたりにある。国民の総てを巻き込む近代戦が、国内で内戦として戦われている国の悲惨は、現代社会が体験する最悪の悲惨だろう。アメリカも日本も、現代の戦争をこの内戦としてはまだ体験していない。空襲も原爆も内戦ではない。南北戦争は西部劇の頃のことであり、幕末の内戦は時代劇の世界、現代の戦争とは言えない。その意味で、サイゴン市内における12日分の描写こそが、開高が描かざるを得なかった現代の戦争の悲惨と現代人の悲惨である。そしてこの現代の戦争は地球上、今も各地で絶えることがない。
サイゴンにおける日常生活の個々の描写は、庶民の普通の生活である。戦争特派員としての同僚達との生活や、愛人<素娥>との刹那的なエロスの営み、現地の文化人との情報交換、飲むこと食べることなど、総てが地上戦を戦う内戦を背景にして暮らすなかで、主人公の多様な思索が繰り広げられ、最後には主人公は一種の神経症の状態にまで落ち込んでしまう。その圧倒的な表現の密度には、何度読んでも感嘆させられる。この濃密な表現レベルの持続は、何度読んでも色褪せない。現代の戦争の質感がここにある。
⑤主人公であり視点人物である<私>は、開高健その人であろう。戦後の私的な体験を回想し、自分の来し方を手探りする所では、この物語に深い奥行きが紡ぎ出される。文体は濃密、数頁の中で戦後の苦しい日々が、ありありと現前する。見事な回想シーンである。ではあるが、これは私小説ではない、<私>が強固に現代人として造形され定着されており、私的なレベルから脱却し現代の普遍性を獲得している。あえて言うなら、<私>とは<作家>と化した現代の人間のあり方といえよう。
⑥この作品の開高健の畳みかける豊穣な文体が素晴らしい。ほとんと上滑りすることなく、過酷な戦争という状況と亜熱帯のベトナムの圧倒的な自然を、過不足なく描き出していく。小説と言うよりも、長大な叙事的な叙情詩となっている。散文の限界を突き破るような勢いが、この文体にはある。これからも何度も読み返すことになるに違いない。