武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『円朝(上)(下)』 小島政二郎著 (新潮社(上)1958/12/21(下)1959/2/24)


同じ著者の「小説葛飾北斎」を読んで自在な語り口が気に入り、ネットで捜したら北海道の古書店がこの「円朝」の初版を出しているのを見つけ、安かったので注文して入手した。50年以上前の古本なので、ページを開くと古書特有の饐えたような匂いがした。この古本独特の匂いは嫌いではない。年数を経た紙が発する歳月の香り。
貸本屋や図書館などでたくさんの人に読まれた傷み方ではない。多分、個人が購入して1回は読まれている。所有者の読み癖なのか、カバーが糊で表紙に貼られており、ページの間にところどころ薄い汚れと砂粒が付いていてページをめくって払うと僅かな汚れがこぼれ落ちる。読み終わったページの方がきれいになっているかもしれない、不思議な読書を楽しんだ。
一読、世評に違わぬ力作という印象を強くしたので紹介したい。本書は落語家三遊亭円朝の評伝でも伝記でもないので、何と言えばいいか、円朝を主人公にした歴史小説と言ったところだろうか。細部を著者の創造力で膨らませた歴史小説という印象だった。気付いたことを列挙してみよう。
①物語は大きく分けて、上巻の江戸時代幕末篇と、下巻の維新から明治中期にかけての明治篇とに別かれている。上巻は落語家として成長し若き名人としての世評を獲得、数回の恋愛模様の後<おやい>と家庭を築くまでの青春時代を描く教養小説。幼馴染みの宮大工<利八>との友情と互いを励まし合う研鑽の日々の描写が清々しい。芸者<小稲>との初めての恋愛劇など、周辺を固める脇役に基本的に好人物を揃えているところが、物語の雰囲気を明るくしている。

②下巻の方は、薩長連合軍の江戸侵攻の経緯から始まり、一子朝太郎の成長を取り巻く家庭小説を基調にして、維新の偉人山岡鉄太郎との親交などを交え、明治という時代の推移の中で円朝を軸とする三遊亭グループの盛衰と内部の確執を描く展開となっている。上巻と比べると話が拡がりすぎて、円朝の物語としては薄味となってしまった。一子朝太郎の放蕩と彷徨の描写に下巻の半分以上のスペースを割いたので、円朝の物語としての均衡を欠いてしまったのが惜しい。押しも押されもしない大家となった落語家の苦悩は息子朝太郎の件だけではないはず、三遊亭グループの組織としての軋みと円朝の芸の発展に目が届いていないのは返す返すも残念、でもこれは無いものねだり、本作が力作であることには何ら変わりはない。
③落語家としての成長を描くために、一種の落語表現論が脇役達との間で交わされる場面が多く、この対話が実に面白い。著者の小説家としての表現論ないし物語論がベースになっいるのか実作者の苦労話にはリアリティを感じた。円朝に感情移入して読んでいると、天才落語家の苦悩を体感できる気がして非常に興味深かった。
小島政二郎の物語作りに視点人物の複数設定の方法がある。主人公を視点人物に据えることはもとより、主要な脇役についても、しばらく視点人物として描き込み、次の場面転換で主人公との熱のこもった論争ないし対話ドラマに発展することがよくある。二人の人物の両方の視点を読者が持っているので、対話者の両方に身を置く結果となり、その輻輳する響きは抜群の効果を発揮する。私は小島政二郎が作り出すこの対話のクライマックスシーンにいつも魅了される。この著者の最大の読ませどころ。
⑤上巻の中程にチラリと出てくる記述によれば、主人公円朝は、著者小島政二郎にとってそれほど遠くない縁戚にあたる人だったらしい。三遊亭円朝1839年―1900年)、小島政二郎(1894―1994)、僅か6年ほどだが生存期間が重複している。著者の幼年期の幽かな記憶の名残りとしての繋がりだろう。円朝の稀代の語りの名人芸は、明治以降の口語表現との物語作家に、相当の影響を与えたという説があるほどだから、円朝と小島の絆は、この物語で描かれている以上に強いのかもしれない。
⑥本書の装幀は、昭和の装幀の第一人者佐野繁次郎、本としての装幀だけでなくモダンで味のある挿絵も提供している。省略を効かせた大胆なデッサンの線画が、物語を力強く引たてて効果を発揮して、書物としての本を読む喜びとなっている。
現在、河出文庫の上下2冊が入手しやすいので、三遊亭円朝もしくは小島政二郎に興味を持たれた方はどうぞ。小説としては上巻の方が出来がいいです。円朝その人の落語の速記録は、青空文庫で読めるので、興味のある方はそちらでどうぞ。