武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 初めて「おじいちゃん」と呼ばれたショック


つまらないことなので忘れてしまおうかと思っていたのだが、
繰り返し思い出してしまうので、
記念すべきことかもしれないと思い、
書き記しておくことにした。


27日の夕方、時間が空いたので、古書店へ読みたい本を探しにでかけた。
店内は空いており、
売れ残りの廉価本のコーナーを物色していた時、
向こうから3〜4歳の女の子を連れた父と娘の二人連れが近付いてくるのが視界の隅に入った。
女の子は大変なおしゃべり、軽い感じの舌足らずなしゃべり方で、
見たこと感じたことをすべて言葉にして、絶えず父親に話しかけていた。
父親の方は、ウンとかフーンとか、適当な返事をしながら少しずつ近付いてきた。
私は、書架の高い位置に、気になる本があったので、
伸び上がるようにしてその本に手を伸ばした時だった。
女の子が、
「おじいちゃん、高いご本とろうとしてる。」
「ウン」と父親は気のない返事。
私はドキッとして、そっと周りを見回した。


細長い通路には、私と幼い娘とその父親の3人しかいないことを確かめて、
その場所にいる<おじいちゃん>と呼ばれそうな人物は、
私のほかに誰もいないことを確認した。
一瞬、その愛らしい女の子に何か言おうかと考えたが、
とっさのことで、どんな台詞も思いつかなかった。
二人は、私の後ろを何事もなかったように通り過ぎていった。
私は、手に取った本のことはすっかり忘れて、
足下から這い上がってくる軽いショックにしばらく痺れていた。


生まれて初めて、この時私は、おじいちゃんと呼ばれた。
幼い女の子から見れば、私は私ではなく、おじいちゃんという存在に見えたのである。
このようにして人は<おじいちゃん>になってゆくのかと思い、
深い感慨がわき上がってきた。
孫が祖父のことを呼ぶときの「おじいちゃん」ではなくて、
存在そのものを高齢者として認識した<おじいちゃん>に、
今この瞬間にされてしまったのだと言う思いは、
少しほろ苦く腹に応える静かな衝撃となって、その後、長く尾を引いた。


年齢という眼に見えない<地雷>を踏んでしまったような奇妙な感覚、
あるいは、言葉でできた狙撃銃による、老年の自画像への一発の命中弾、
あの瞬間、雷に打たれるように偶然に、私の老年期は音もなく幕を開けたのかもしれない。