武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『昔日の客』関口良雄著(夏葉社2010/10/30)


長年読みたいと思っていた随筆集、78年に三茶書房から1000部ほど刊行され、名随筆の誉れが高かったが、入手困難な絶版本だった。それが昨年復刊されていたことを知り、早速取り寄せて読んでみた。評判通りの好著だった。著者が故人なので、これを読んでしまうともう読むものがなくなるのが分かっていても、残りページを惜しみながら一気に読んでしまった。
著者は古本好きにはよく知られた山王書房という古書店の店主だった人、多くの文人に贔屓にされた名物古書店だったので、幅広い文人達との交流から生まれたエピソードが随所に出てくる。
今や古書価格が崩れてしまい、古書店の経営が成り立たなくなりつつあると聞いている。著者の時代が、文字通り古き良き時代だったということが行間からひしひしと伝わって来る。良い時代を生きた良い古本屋の話が良い本となってここにある。
前置きはこれ位にして、気に入ったところを拾い出してみよう。
古書店の店主という職業が何よりも気に入って、日々心を込めて一生懸命に勤めている姿がエピソードの背後から自然に漂ってくるところが気に入った。仕事に身を入れて打ち込んでいる一途な姿の美しさが、この本の全編に漲っている。仕事は何であれ、大人のこういう姿勢は気持ちがいい。そんな職業的な普遍性がこの本のバックボーンとなっている。この人の古書の価値に対する目利きは鋭く広くしっかりしたものだっただろう。これは、古本屋という天職に一身を捧げた人の物語でもある。
②多彩な著名人との付き合いは、書かれようによっては鼻持ちならないことにもなりかねない。だが、この著者が披露してくれるエピソードにはそんな嫌みは微塵も感じられない。それは細やかな心と心の触れ合いがエピソードの芯になっているからだろう。本当のサービスとはそういうものだ。古書を扱う商売人だから、損得抜きと言うわけにはゆかない計算はあっただろうが、おそらく古書への価値判断が適切なのだろう。高くもなく安くもない文句の付けようのない価格設定というものが確かにあるのだ。それが、がっちりとリピーターを掴んで離さない古書取引の要諦ではなかったか。そんなこんなが推測される読み物でもある。
③著名人との交友から掬い上げられた話も興味深いが、家族や著者を取り巻く友人知人達との遣り取りをテーマにした短い随想が切れ味抜群、珠玉の名品が揃っている。著名人ではない人々は、苗字だけ名前だけだったり、アルファベットのイニシャルだったりするが、粒が揃って見事な出来だ。俳句をやっていた人らしく、季節感の演出も鮮やかに、うっかりすると見逃してしまいかねない人情の機微が、見事に掬い上げられて、味わい深い掌編が次から次へと出てきて、思わず先を読み急いでしまう。味わいとしてはやや淡白だが何とも爽やかな佳作が揃っている。随筆、随想は人柄による芸術だと言うことがよく分かる。
④付録の初出一覧を見ると、発表順に時系列で編集してあることが分かる、並び方が自然で順番に読んでいくと、洒落た短編連作の中編小説を読むような印象すら受ける。とりわけ、最後の「「日本近代文学館」の地下室にて」の冒頭に「去年の夏、原因不明の腸を病んだ。」というフレーズが見える。この2か月後に結腸癌で亡くなっていることを思うと、1960〜1977年の一古本屋のドキュメントとしても読めて、粛然としてしまう。
⑤繰り返しになるが、60年代から80年代にかけてのこの頃は、今とは違い、本の価値も、街の古本屋の文化的位置づけも、はるかに教養主義的で長閑で、文学者を誰もが尊敬していた、なんとも良い時代だったのだ。誰もが、今日より明日の方がきっと良くなると信じて、絶望を語る人にも、心なし夢見るような雰囲気が感じられた時代だった。そんな古き良き時代の本好きの世界を、磨き抜かれた達意の文体と絶妙の話題展開でじっくりと語られており、読書好きにはたまらない話が次々と出てくる。心なしか私の渇きかけた気持ちもしっとりしてきた感じがした。
⑥画像からお分かりいただけるように、この本はウグイス色の布地の装丁、しっかりしたハードカバーで裏表紙に小さな版画が押し張りしてあり、手に持って実にしっくりする上品な仕上がりとなっている。本自体としても良い作りなので一度手にとってご覧頂きたい。外も中もいい。
最後に、目次を引用しておこう。( )の中はそこで取りあげられている著名人。全部故人なので時代の推移を感じる。

正宗白鳥先生訪問記(正宗白鳥
コロ柿五貫目(栗島すみ子)
虫のいどころ
古 本
偽筆の話(尾崎士郎室生犀星
上林暁先生訪問記(上林暁
恋 文
伊藤整氏になりすました話(伊藤整
尾崎さんの臨終(尾崎士郎
最後の電話(尾崎士郎

お話二つ
イボ地蔵様
二冊の文学書目(尾崎一雄上林暁
泥棒の歌
好色の戒め
某月某日
父の思い出
可愛い愛読者
川端康成「明月」の軸(川端康成上林暁
スワンの娘
洋服二題
寒 椿(浅見淵
遠いところヘ
駈込み訴ヘ(尾崎一雄
二人の尾崎先生(尾崎士郎尾崎一雄
自画像
大山蓮華の花
昔日の客(野呂邦暢
日本近代文学館」の地下室にて(小田切進)
 あとがき
 復刊に際して

全編、書物への愛情溢れる話の連続、本を読むことが好きな方は、是非一度手にとって見られるようお勧めする。読み出したら止められませんよ。