武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 朝のワンプレート(5)

 現役の頃の同僚で、ある日突然にクモ膜下出血が原因で、奥さんを亡くされた人がいた。高校生と中学生の二人の息子達を残しての突然の他界だった。残された男三人の家事に振り回される日々が始まった。
 その時かつての同僚は、成長期の子どもを抱えて、食事についてある明解な結論に達した。しばらく時間を掛けた熟慮の末に、半月15日分の朝晩の献立を考え抜き、その献立表を回して食生活を組み立てることにしたのである。「半月過ぎていれば、同じものでも飽きずに食べてくれるだろう」。このシステムを考えた同僚の台詞だった。
 その後、職場は変わってしまったので、同じ献立がいつまで続いたか分からないが、同僚と息子二人は元気にしていると、風の便りに聞いた。この話を思い出したのは、一つのアイディアとしてすごく感心したからである。
 毎日の食事について、毎回新たに献立を考えるのは辛いうえに面倒なことこの上ない。考えがまとまらないと、何を買い物してくればいいか、それすら決めかねてしまう。台所の経営を預かってみて、家族の食事を作り続けることの大変さがやっと分かった。
 好きなものを作り続けるのも、何日分かはそれでも良いが、1ヶ月が半年になり、1年先を考えるととても無理。そこで、どうしても必要になってくるのが、栄養バランスや嗜好、季節感、調理技術や調理器具、経済性などを総合的に満たしてくれる食事作りのシステムである。
 昔の食事は、あまり考えることもなかった。あるものを煮炊きして、食べられるようにして出すだけ、あとは味の工夫と、食材を腐らせないための保存技術を磨く程度だっただろう。燃料も薪か炭、調理器具も鍋と釜、食材は地域社会で採れる季節のものと作り置きの乾物や漬け物、この程度だったらある物自体の組み合わせが、イコール食のシステムだった。
 今は、言わずと知れた<飽食の時代>、どの家庭にも冷蔵庫はあり、調理器具も食材も、資金さえあれば何でも選べる。世界中の食材と、どこの国の調理法でも、やろうと思えば不可能はない。なんと恵まれた時代のなったのだろう。それなのに、<食の崩壊>が語られるとは、何とも不思議。食事することが何でもないことになってしまったので、食事が出来ることの有り難みが薄れてきてしまったのだろうか。
 語られるべきは、得意料理や家族が喜ぶレシピ自慢ではなく、それぞれの家庭で営まれている食事造りのシステムであろう。1週間なり1ヶ月、あるいは1年間でもいいが、毎日の食事作りを、どのような基本的な考え方で作っているかというのが<食のシステム>である。個々のレシピや献立ではなく、それらの食事の背後にひかえていて、日々食事を作る行為をコントロールしている担当者の考え方、それこそが語り出されるべきことではないか。システムが分かり難いなら食のパターンと言ってもいいし、食のスタイルと言ってもいい。要するに何らかの枠組み(フレーム)がないと、食事を組み立ててゆくのに戸惑うことが多過ぎるということなのだ。
 シリーズ5回目なので、つい難しいことを考えてしまった(笑)。

 前置きはこれくらいにして、朝の献立を紹介してゆこう。

3月某日の朝食(上) ・ワカメスープ(ネギ、油揚げ、ワカメ、切り干しダイコン)・ご飯・ブロッコリーの温野菜・蕪の葉のおひたし・エリンギと油揚げのきんぴら・椎茸の旨煮・キャベツの温野菜・ダイコンと鶏挽肉の煮物・・プレーンオムレツ・画像にはないがコーヒー入りホット牛乳

3月某日の朝食(下) ・味噌汁(ネギ、干し椎茸、ジャガイモ、タマネギ)・ご飯・キャベツの温野菜・人参の温野菜・ブロッコリーの温野菜・蕪の甘酢漬け・ほうれん草のおひたし・蕗の葉の佃煮・エリンギと油揚げきんぴら・ラッキョウの甘酢漬け・ダイコンと鶏挽肉の煮物・プレーンオムレツ・コーヒー入りホット牛乳

 食事のシステムなどと言っていますが、要するに、味噌汁やスープなどの吸い物とプレーンオムレツ以外は、冷蔵庫にあった保存食、幾つかは昔からよくある常備菜、朝食造りに費やした労力を考えれば、手抜きもいいところ。システム化・合理化とは、要するに労働コストを下げることである。
 楽して、身体に良く、しかも美味しい、この3条件を満たす朝食こそ、ワンプレートに載っているわが家の朝餉だと思っている次第、お試しあれ。